師を見つける旅

卒業生に贈る言葉 2009年度

吉田民人先生の想い出

 自分が親から受けたものを子に伝えたい、というのはナィーブな親心である。大学教員としても、自分が学生時代・院生時代に、研究者の卵の時代に、師から受けた教えを、諸先生や先輩、友人から学んだものを、学生・院生たちに返したい、とナィーブに願ってきた。
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「海へ帰りたい」

 正村俊之先生と私にとって共通の恩師である吉田民人先生が、昨年10月27日に逝去された。享年78歳。学問上・研究上の「父」のような存在だったから、ひどく落胆している。しかも「ひっそりと消えたい」として、5人の近親者による密葬が行われたのみで、葬儀や告別式は行われず、しかも「追悼集会に類するものは一切不要」と強く固辞され、お別れの場も設けられなかった。「科学者として生命の根源である海へ帰りたい」という言葉と、遺骨のちょうど半分は両親の眠る京都の寺に、もう半分は、茅ヶ崎沖に散骨するようにという遺言を遺された。吉田民人先生の主著(於・「吉田民人先生を語る会」2010年3月22日、学士会館、宮台真司氏撮影
 結局、京大時代の教え子である上野千鶴子さんと、東大大学院で指導学生として鍛えられた私たち計16名が呼びかけ人となって、3月22日に「吉田民人先生を語る会」を催すことになった。暮れから新年にかけて、正村先生らと、どのような会ならば、遺言の趣旨に背かない形で可能か、ということを真摯に論じあった。参考・吉田民人先生を偲んでLinkIcon「峻拒」ー最後の問いかけLinkIcon
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20歳の折に

 吉田先生に最初にお目にかかったのは1975年4月、駒場から本郷に進学した大学3年生の授業だった。43歳の先生は時を同じくして、京大教養部から、東大文学部に迎えられた。駒場の2年次に、発表されたばかりの「社会体系の一般変動理論」(青井和夫編『社会学講座1 理論社会学』東京大学出版会、所収)を読んでたちまち魅了され、着任をうかがって心待ちにしていた。
 先生はノートもテキストもプリントも何も持たずに教室に現れると、黒板にチョークだけで、やや甲高い声で、速射砲のように、口早に授業を始められた。講義も演習も基本的にこのスタイルだった。授業をもつようになってこのやり方を何度も真似たが、よほどの集中力と周到な準備が必要である。論文は精緻で難解だったが、口頭でのお話は簡明でわかりやすい、骨太の、迫力ある授業だった。
 授業中のちょっとした説明の仕方や院生・学生の報告へのコメントの折、また研究会の折などに、ふとした拍子に、今の自分の発言やものの言い方は、先生を真似たセリフだなとか、先生的な発想のコメントだなと心の中で呟くことがある。口頭試問の折などに、大学院で同期の正村先生の発言を聞きながら、吉田さん的なコメントだなと、微苦笑することもある。
 1990年の11月頃だったか、カリフォルニア大学バークレー校で在学研究をしていた折に、「吉田先生が亡くなった」という日本からの知らせを受けて、「サンフランシスコ湾に沈む赤い大きな日輪」を見ながら、先生はとうとう亡くなったんだ、これからはもう先生を頼りにすることはできないんだと反芻する、という生々しい夢を見たことがある。精神的な「親殺し」であり、研究者としての精神的な自立でもあったのだろう。自分にとって、先生の存在の大きさをあらためて直覚した夢でもあった。

吉田先生の教え

 75年4月から、東北大学に職をえた84年10月まで、ちょうど私自身の20歳代とも重なる9年半の間、先生の近くで親しく教えを受けた。年齢的にも吉田先生の研究活動がもっとも旺盛な時期でもあり、構造—機能主義的な社会システム論が日本においてピークを迎えていた期間でもあった。
 京大出身の吉田先生が東大の社会学研究室に招かれたのは当時としては異例の人事だったから、大学3年生で吉田先生と巡り会えたのは、大変幸福で、かけがえもなく幸運な出会いだった。79年に、正村さん、川崎賢一さん、宮野勝さんと私の4人は、先生の最初の指導学生として修士論文を提出し、博士課程に進んだ。先生にも、私たちにも、研究室の中に、新しいスタイルと潮流をつくっていくんだ、という自負があった。口には出さずとも、自分たちが一期生的に牽引していこう、という矜持があった。
 吉田先生との出会いがなくても、私は、環境社会学や社会運動論、市民社会論などを中心とする今のような研究テーマを結果的に選んだかもしれない。しかし確実に言えるのは、先生の教えと導きがなければ、今よりもずっとつまらない、スケールの小さな(今でも大きいとは言えないが)研究者にとどまっただろうという思いである。先生は内容に立ち入った細かな論文指導はなさらなかったが、研究者としての構え、いわばバッターボックスへの立ち方とヒットの打ち方、長打の狙い方、ミートの仕方を教えてくださった。何よりも、考える喜び、アイデアを育てる喜びを教えてくださった。基本的なものの考え方、発想のしかた、研究者としてのスタンス等々、一切を教わった。
 何の分野であれ、基本を正しく教わることは決定的に重要である。そして、自分は基本を正しく教わったという確信を持つことは、大学教員として教壇に立ち、学生・院生を指導していくうえで欠かすことのできない精神的な支えである。

創造的破壊

 先生の学問の強さと弱点、意義と残された課題を検討することは、私たち後進にとっての大きな宿題でもある。しかも「民人は人民の敵だよ」と冗談を言いながら、とくに先生が何よりも強調され、身をもって実践しておられたのは、リベラルで反権威主義的な姿勢であり、自由な批判精神にもとづく創造的な研究の意義だった。「創造的破壊」「創造は誤読から始まる」「ミニ吉田はいらない」「読む前にまず自分で考えよ」などの先生の名言がある。「パラダイム革新」を説き、既存の枠組みから自由であることの重要性とその難しさを、常に力説しておられた。

生身の身体の存在感

 「読者を媒介として故人は生者となる」と言われる。研究者の仕事は著作をとおして生き続ける。しかしながら、生身の身体が発した折々の肉声、眼光やまなざし、存在感等々の生々しさは、生命としての死とともに、永遠に失われる。関係者の中に、記憶と思い出を媒介として生き続けるのみである。
 教え子としての最大の悔いは、結局、存命中には、先生に心底誉めていただけるような仕事はお見せできなかったという思いである。今後の精進と研鑽をただ誓うしかない。
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師を見つける旅は人生そのもの 

 卒業生のみなさん。何を一生の仕事にするのであれ、良き師との出会い、良き友との出会いは、貴重な財産です。卒業後も、それぞれの分野で、この人だ、という師を見つけてください。師との精神的な格闘の中から、自分のスタイルをつくりあげてください。
 師を見つける旅は、制度としての学校を卒業したら終わりというわけでは決してありません。市井の中にも、職場にも、本当の師がいるでしょう。師を見つけ、学ぶ旅は、人生そのものであり、生きる喜びそのものであるといえるでしょう。

2010年1月29日