「峻拒」——最後の問いかけ
『吉田民人先生の想い出』所収(pp.75-6)
下記は、2010年3月22日に開催した「吉田民人先生を語る会」の折に、参加者に配布した『吉田民人先生の想い出』に寄稿したものです。あわせて
吉田民人先生を偲んで
師を見つける旅
も参照ください。
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「君たちは何て余計なことをしてくれたのか」。先生は怒っておられるのだろうか。「お前は、私の死を俗世間に売り渡そうとするユダなのか」という激しい叱責を受けるのだろうか。
「追悼集会に類したことは一切不要というよりは拒絶。理由は複雑だが、ここには書かない。」『吉田民人先生の想い出』というのが、先生の遺言の、下から二番目の項目である。文字どおりに解釈すれば、この集まりは開くことができない。されど先生とお別れをしたい、きちんとお別れを申し上げたいという、宙づりにされたままの、ほとんど動物的な生の感情が色濃くある。
では、遺言の精神に背くことなく、どんな集まりが可能なのか。
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この集いの呼びかけ人を代表する形で1月10日に先生のお宅をたずね、遺言を見せていただいた。この一項以外は、遠慮がちに目をやった程度だが、全体として、ご自身の死にまつわる一切から、〈虚〉を、虚礼的なものや虚飾的なものを極力排したい、という強烈で厳しい遺志が感じられた。
「峻拒」という文字が浮かんだ。先生はなぜ、こんなにも厳しく、私たちにお別れを許して下さらないのか。どうして君たちに「見送られたい」という言葉を遺しては下さらなかったのか。先生は、こんなにも「孤髙」の念を抱き続けておられたのか。
「しかし先生、社会を成り立たせているのは、ささやかな、また壮大な、フィクションであり、〈虚〉ではありませんか。制度であれ、組織であれ、ネットワークであれ、宗教であれ、また家族であれ。」
「だからといって研究者が安直に〈虚〉にもたれかかってはいけないよ。だからこそ人生を閉じるにあたって、ぼくは、極力〈虚〉を排したいんだよ。〈俗〉を排したいんだよ。」と先生は答えられるのだろうか。
儀礼的な追悼集会は「峻拒」するという強烈な遺志を「顕教」とすれば、一方そこで「密教」的に求められているのは、強い「信仰告白」であるような気もしてならない。「拒絶」の二文字の裏側からは、簡単にやり過ごさないでほしい、日常の中に逃げ込まないでくれ、という強い光条が発せられているようだ。
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本郷に進学した大学3年の4月、1975年に、東大に着任されたばかりの吉田先生と巡り会い、1984年10月に東北大学に職を得るまで、とくに9年半親しく教えを受けることができたのは、大変幸運な出会いだったと心からお礼申し上げたい(詳細は、日本社会学会ニュース198号所収の拙稿「吉田民人先生を偲んで」を参照)。
1979年に、川崎賢一さん、正村俊之さん、宮野勝さんと私の4人は、先生の最初の指導学生として修士論文を提出し、博士課程に進んだ。先生にも、私たちにも、新しいスタイルと潮流をつくっていくんだ、という自負があった。口には出さずとも、一期生的に牽引していこうという矜持があった。
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このような会合を一切持たないことも、また安直に持つことも、恐らくは、どちらも先生の本意ではないだろう。
遺言の精神に背くことなく、どんな集まりが可能なのか。そこで、君たちはどんな言葉を発するのか。答えを聞きたい。言葉の選択にことのほか厳しかった先生が、熟慮の上で選ばれたであろう「拒絶」という二文字は、虚と実の間で踏み絵を強いるように、精神的緊張を課しながら、鋭くこう問いかけたまま、屹立しているのではないか。
2010年1月24日執筆