阿部次郎と最上川・鳥海山・月山

                   長谷川 冬虹

 山形県に生まれ育った者にとって、ひときわ愛着が深い最上川。内陸育ちの齋藤茂吉の同時代人で、一高・東京帝国大学と同じコースをたどり、生涯の親友でもあった庄内生まれの哲学者阿部次郎も最上川を愛惜した一人である。『秋窓記』(一九三七年(昭和十二年))所収のエッセー「最上河」に詳しい。
 酒田市郊外の旧松山町(現・酒田市)で育った次郎にとって、鶴岡中学時代の「最上河は自分と家とを隔てる天の川」であり、「親しきものにして又おそろしきもの」であった。その後の山形中学時代は、船で、車で、徒歩で、さまざまの「異れる最上河を見た」と次郎はいう。最上川と鳥海山と月山が、自分の魂を、「自然感情」を育んだと語る。その次郎が脱帽したのが芭蕉の二つの句である。
 「五月雨を集めてすずし最上川」から、「集めて早し」への改作を「身をもって河を下って」「最上川の魂をつかみ得た」「舟中吟」への改作とみる。「暑き日を海に入れたり最上川」を、旅行者芭蕉の「土地の風土の神髄を剔出する霊腕に驚嘆する」と次郎は絶賛した。「大河の勢が暑き太陽を流して海に入れてしまふのである。太陽が大河に流されて海に吐き出され、沈められてしまふのである。」

(北の旅人9 阿部次郎1)

 故郷を離れた者の望郷の旅、懐旧。それはしばしばより大きなスケールでは西洋体験を経ての日本回帰、日本再発見とパラレルである。前回も取り上げた阿部次郎の『秋窓記』は、同郷人の齋藤茂吉などとともに、デラシネ(故郷喪失者)の危機感をもつ近代日本の知識人の故郷への想いの代表例といえるだろう。『秋窓記』は、十ヶ月間の外遊を経て東北大学に赴任後の八年間のエッセーを収めている。「帰省するごとに郷里の話をしみじみと燈火に語りきかせ給ひし 亡き祖母の霊前に捧ぐ」という献辞がある。
 旧松山町(現・酒田市)の次郎の生家を保存・公開する阿部記念館。その往来にはちょうど正面に鳥海山が、背後には月山が控えている。次郎の精神性を育んだ二つの秀峰は、生家からちょうど正反対の方向に屹立する。次郎が散策を好んだ外山は「眺海の森」として整備されている。「最初に高さの観念を与へ」「二人の英雄のやうに長揖して」いた北の鳥海山と南の月山。あたかも両山を結ぶ頂きに、「最上河」の末尾の一文を、生誕百年記念の碑文として刻む。「まさに海に入らうとする最上河とその周囲に発達せる平野は、鳥海山と月山の中央山脈の山塊を盟友として、幼い私の魂をその懐の中に育ててくれたのである」。

(北の旅人10 阿部次郎2)

 長谷川公一選考委員が、長谷川冬虹(とうこう)の筆名で、主要な俳句結社の雑誌に寄稿したものです(雑誌によって異なりますが、阿部次郎1・2は、2008年6月号・7月号などに掲載。原文縦書き)