アントウェルペン

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I

ドイツ文学に関するもの

II

文学の理論に関するもの

III

哲学に関するもの

IV

コラム・項目執筆、その他

V

翻 訳

I ドイツ文学に関するもの

(1) カフカのテクストにおける「異和」の力動
  ――『ある犬の探求』を例に――

  〔『東北ドイツ文学研究』第 26 (198212), 69-83 頁〕
 カフカの作品言語の特徴を、第一は語りの構造における語る者と語られる事柄との交錯という点から、第二には隠喩などにおける意味論的な透明性の欠如という点から論じる。いずれも、常識的な言語使用における対象レヴェルとメタレヴェルとの区別が無効化された様態であり、本稿ではこれを言語における「分裂病的なもの」として特徴づけている。カフカの作品に特有の内閉的な性格が、これによって言語論的に説明される。

(2)
比喩を読む
 ――ホーフマンスタール, リルケ, カフカにおける「言語」の前景化の諸相――

  〔『ドイツ文学論集――小栗浩教授退官記念――』, 東洋出版, 1984, 684-712 頁〕
 ホーフマンスタールの『手紙』における言語危機のモチーフと文体との乖離、リルケの幾つかの詩作品における自己言及的な言語使用を論じた後、解釈的な意味確定を言語そのものにおいて拒んでいるカフカのテクスト(特に『訴訟』)の構造を分析する。これにより、20世紀文学の特徴の一つである「言語の解体」が、単なる主題であることから、テクスト言語そのものの性状へと内在化されてゆくプロセスを跡づける。

(3) 『巣穴』の解体
 ――カフカ読解に関する一試論――
  〔『ドイツ文学』第 73 号(198410月), 92-101 頁〕
 あくまで作品の言語を考察するという視点から、カフカ最晩年の物語作品の精密読解を試みる。その際に、批評理論における「脱構築」の考え方を取り込み、作品がその字義通りの言語的構成のレベルで提示する構造そのものが、それに対して読者が適切な解釈を与えることをあらかじめ否認してしまうような性格を持つことを明らかにする。これによって、「解釈の多元性」を作品の意味として取り出す認識批判的解釈もまた不適切であることを示す。

(4) 自動機械としての文学
 ――G.ビューヒナー『レオンスとレーナ』における反復の技法――

  〔『東北ドイツ文学研究』第 29 号(198512月), 20-37 頁〕
 言語を観察するという視点で、クライストの戯曲を精密読解する。このテクストの中で読者は、音韻からモチーフにいたる様々なレヴェルで、執拗なまでの言語的反復の現象を目にする。それが意図的になされたものであるにせよないにせよ、反復はテクストの特徴的な自己提示様式であり、この作品を現代的な「表現機械」たらしめている最大の要因のひとつである。

(5) 動物の声
 ――カフカにおける「コミュニケーション」のモチーフ――
  〔『現代思想』第1514号(1987 12 月号), 121-135 頁〕
 カフカの作品言語を検討する作業のまとめ。まずカフカの物語の中に、異形の言語という形象を介して、コミュニケーションや言語理解の不可能性への言及が含まれていることを、幾つかの事例に即して分析する。これは、それが作家の個人史に由来するモチーフである(例えば「書くこと」の問題)という点においてだけでなく、作品言語を理解することそのものの可能性を作品がつねに問題化にしているという意味で特徴的である。

II 文学の理論に関するもの

(1) 『操り人形芝居について』を読むポール・ド・マン
  〔仙台クライストの会刊『人形芝居』第 1 号(19861月), 81-88 頁〕
 『ロマン派のレトリック』に収録されたポール・ド・マンのクライスト論を主な素材として、脱構築批評の方法論を検討する。クライストの謎めいたテクストから「読むこと」についての言及を巧妙に取り出してくるやり方に着目しつつ、独特の精密読解が文学研究にとって持つ有効性を吟味する。

(2) 文学研究における「言語」の問題
 ――象徴/アレゴリー論を手がかりとして――  (1)

  〔『横浜国立大学人文紀要』第二類・第36輯(198910月), 37-52 頁。学術文献刊行会編『国文学年次別論文集・平成1年・国文学一般』朋文出版、に再掲〕
 文学の言語を解釈するにあたってわれわれが取る通常の態度、つまり「言われていること」を「意味されているもの」に、特に一種の人間学的な理念に同一化しようとする理論的態度はどこからきたのか、その淵源が18世紀に成立した「美学」的思考様式にあることを示し、その特徴を、古典派・ロマン派の詩人たちや観念論の哲学者たちが繰り返した「象徴讃美・アレゴリー批判」という特異な言説の内に探る。

(3) 文学研究における「言語」の問題
 ――象徴/アレゴリー論を手がかりとして――  (2)

  〔『横浜国立大学人文紀要』第二類・第38輯(199110月), 169-188 頁。学術文献刊行会編『国文学年次別論文集・平成3年・国文学一般』朋文出版、に再掲〕
 「象徴・アレゴリー論」およびその前提にある近代美学の最も洗練された形は、ヘーゲルの『美学』に見出されるが、同時にヘーゲルは、問題の根が、観念論哲学の一隅に書き込まれた人間の記号操作能力についての教説(それは「言語」の問題でもある)にあることをも明らかにしている。ここでは、ヘーゲルの記号論の検討から出発して、近代を刻印している「象徴論」一般を問題化し、言語との理論的な関わり方を根源的に再考する。

(4) 「書くこと」と「書かれたもの」
  〔『現代思想』vol.19-219912月号), 120-130 頁〕
 文学的な「書くこと」とはどういう行為だろうか。着想を、意図的・整合的にことばに乗せてゆくという観念は、読解における「意味されるもの」(作者が意図したもの)の整合的な解釈という観念と符合して、常識的な文学観を形づくる。しかし、カフカやベケットのような特異な作家の場合に限らず、多くのテクストはむしろ自己管理的ではない一種の「一気書き」によって成立している。その意味を考えることが、読むことの再考にもつながる。

(5) ジャンルとは何か
  〔『日本文化研究所報告集』(東北大学文学部)第29集(19933月), 93-111 頁〕
 「文学とは何か」「詩的言語を特徴づけるものは何か」という本質的な問いを問うための迂回路として、文学のジャンルについて考察する。ジャンル論が必要とする「種差」の観点の中に当然詩的言語の特徴への言及が含まれるからである。しかし検討してみると、アリストテレスの『詩学』以来、「詩と現実」との区別は、説明されるのではなく前提されていることがわかる。つまり文学を言語的に本質規定することは、そもそも不可能なのである。

(6) 美しい自然から形成する手へ 
 ――十八世紀における美学・詩学的概念形成に関する概観と考察――
  〔『横浜国立大学人文紀要』第二類・第40輯(199310月), 27-47 頁〕
 (2)(3)で言及した18世紀における美学的思考の形成過程について、更に詳しく論じる。啓蒙主義期に「美しい自然の模倣」であった美が、当時の「記号論」に媒介されたジャンル論を経て、自然から自律した自己完結性をもつ価値へと高められる。それは美の可能性が、作品を「形成する」自律した主体としての近代的人間(芸術家)の内に内面化される過程でもあり、ここに芸術の自律性という現代にまで通じる観念が完成することになる。

(7) コミュニケーションと詩的言語
 ――「関連性理論」からの考察――

  〔『カレイドスコープ 中村志朗教授退官記念論集』(東北大学文学部独文研究室編、19952月), 363-379 頁〕 
 近年の認知科学的なプラグマティクスを代表するD.スペルベルとD.ウィルソンによる「関連性理論」を紹介しつつ、特にその中での詩的言語についての議論を検討する。従来の言語学的な、あるいは記号論的な詩的言語論がなぜ限界にぶつかるのか、またそれを克服するために認知論的・コミュニケーション論的な方法論が導入されるべき理由を明らかにし、合わせて言語哲学的な真理論・隠喩論との接点を探る。

(8) 虚構の発話の基本性格
  〔『東北大学文学部研究年報』第47号(19983月), 327-348 頁〕
 小説のような虚構の言語がそれ固有の効果を伴うのは、言語それ自体が特殊な性質を持つからではなく、その言語を虚構的なものとして扱う創作者や受容者の理解のスタンスが、現実言及的な言語理解の場合とは異なるからである。従って虚構は言語としてではなく発話として、つまり伝達過程の中でどのような提示・受容のされ方をするかという点から考察しなければならない。ここでは、特にその「アスペクト的性質」に焦点を当てて、虚構の発話の基本性質を検討する。

(9)
批評と行為
 ――文学的行為の理論のための予備的考察――

  〔夕葉会編『道標――高瀬計征先生退職記念文集』、私家版(20013月)、43-57頁〕

(10) アドホックな概念・非命題的なもの・弱い推意
 ――隠喩論は何を明らかにしなければならないか――

  〔『東北大学文学研究科研究年報』第51号(20023月), 258-288 頁〕
 ここ20年ほどの間に隠喩の理論は急速な発展を見た。特に、認知言語学による慣習的隠喩の研究が、このテーマが言語学だけでなく認識論の根幹に関わることを明らかにした功績は大きい。しかし、概念(カテゴリー)のアナロジーやアドホックな変形を焦点にすえるその議論では、隠喩理解の核心にある 、「意味」を越えたレヴェルでの「ヴィジョン、思考、感情」の喚起を十分に解明できない。デイヴィッドソンが指摘し、関連性理論が説明を試みたこの問題に正面から取り組むことが隠喩論の本来の課題である。

(11)
『文学的虚構の基本性質に関する研究 』
  〔科学研究費補助金研究成果報告書(課題番号 12610568)、20023月、77頁〕る

(12) 「書くこと」と「読むこと」
 
――文学的行為をどう論じるか――

  〔『東北ドイツ文学研究』第46号(200212月)、77-92頁〕

(13) 「芸術=反終焉論」の射程
 
――芸術終焉論の現代的意味を考えるために――

  〔科学研究費補助金研究成果報告書,『芸術終焉論の持つ歴史的な文脈と現代的な意味についての研究』、研究代表者:栗原隆(課題番号 16202001)、20063月、67-90頁〕

(14) 『虚構の認知的効果および社会的機能に関する研究』
  〔科学研究費補助金研究成果報告書(課題番号 16520198)、20063月、80頁〕

(15)
「批評」の位相
 ――文学を語ることはいかにして可能か――
  
〔栗原隆編『芸術の始まる時、尽きる時』、東北大学出版会、20073月、349371頁〕 *(9) の改訂版

(16) 表現によって現れ出るもの
  〔ナラティヴ・メディア研究会第1回ワークショップ報告書『 コミック研究のフレーム再考のために――研究方法の多様化と今後の展望――』、20083月、61-67. 編集代表:森田直子(東北大学大学院情報科学研究科)〕

(17) 物語認知の比較ジャンル論的考察
  ――物語的他者への自己移入という観点から――

  〔『ナラティヴ・メディア研究会活動報告書 2008年度』、20093月、121-145頁。 編集代表:森田直子(東北大学大学院情報科学研究科)〕

(18) イメージと物語
  ――T・グルンステンの著作を手がかりに――

  〔『ナラティヴ・メディア研究』第2号(20108月)、127-140頁〕

(19) メタ表象としての虚構
   〔『文学における不在――原研二先生追悼論文集』、原研二先生追悼論文集刊行会、201111月、239-251頁。〕

(20) 物語の〈人物〉はどのように経験されるか
 ―― 比較ジャンル論的考察 ――

  〔『ナラティヴ・メディア研究』第4号(20133月)、55-85頁〕

(21) 物語経験の時間性
  〔『ナラティヴ・メディア研究』第5号(20163月)、15-47頁〕

(22) 再現のリアリティ
  〔『東北大学文学研究科研究年報』第65号(20163月)、117-144頁〕

(23) テンポと視点人物
 ―― 物語へ向かう東村アキコ ――

  〔『ユリイカ』第494号(20172月)、202-208頁〕

(24) 物語の基本性質
  〔『文化研究報告』第5輯(20173)、東北大学文学部ドイツ文学研究室、83-92頁〕

(25) 批評と文学的経験
  〔『東北ドイツ文学研究』第61号(20213月)、149-167頁〕

III 哲学に関するもの

(1) E.フッサールにおける相互主観性の問題
  〔『流動』第127号(19807月号)、58-73 頁〕
 いわゆる『危機書』と『デカルト的省察』を主テクストとして、後期フッサール現象学における相互主観性理論を批判的に検討する。特に方法論や「議論の枠組」という骨格的な部分に着目しつつ、フッサールの超越論的現象学の射程と限界、つまりそれが事実的な人間経験の全体像を捉える可能性を有していた反面、認識論的独我論を越え出ず、生活世界や相互主観性について十分な議論を展開できなかったことを明らかにする。

(2) フランクにおける「個別性」の解釈学
  〔『現代思想』第1411号(1986 10 月号)、116-129 頁〕
 現代ドイツを代表する哲学者の思想についての、たぶん日本では数少ない紹介論文。デリダ=サール論争についてのフランクの議論を参考に、コード論とも脱構築とも一線を画しながら、シュライアマッハーに依拠する独自の解釈学的「個別性」の哲学を提起しようとする彼の主張を検討する。ロマン派評価をめぐるド・マン(脱構築)との見解の相違についても詳述する。なおこの時点までの主要論文・著作目録を付す。

(3) 恋愛のディスクール
 〔『現代思想』第151 (1987 1 月号)86-93 頁〕
 いわゆる恋愛論ではなく、バルトおよびJ.=L.ナンシーの議論を参照しながら、「相互性・共同性」の極限としての愛に、コミュニケーションの「限界」のかたちを見定めようとする試み。恋愛のディスクールは、自発的であると同時に「片をつける」ことができない拡散的・散逸的な様態、メタ・レヴェルからの統握(正常な自己関係)を破壊する分裂病的構造、反対話的なむき出しの相互性などによって特徴づけられるが、それは特異なものとしての私とあなたが出会うことそれ自体の現象として考えることができる。

(4) 隠喩とコミュニケーション
 ――デリダとデイビッドソンの場合 ---

  〔『現代思想』第156号(1987 5 月号)、90-104 頁〕
 現代哲学におけるコミュニケーション論の検討を本格的に行った最初の論文。特に隠喩の理解というトピックについて、言語学や記号論におけるコード論的な説明とは別の視点からこれを論じたものとして、デリダとデイヴィッドソンの言語哲学的議論を取り上げる。言語理解を理念的な能力主体に還元するのではなく、そのつど生起する理解という現象を適切に説明する枠組を模索している点で、両者は問題意識を共有している。

(5) ホーリズムの帰趨
  〔『現代思想』第168号(1988 7 月号)、154-173 頁〕
 W.v.O.クワインの思想、特に『ことばと対象』前後に示されたいわゆるホーリズムが、近代的な二元論を問題化するという点では未だに不徹底であること、刺激による信念の正当化という図式が、整合的な真理の第一次性を主張するデイヴィッドソン流のホーリズムに取って代わられざるをえない事情を明らかにする。それはまた、いまだ経験論的な「概念枠」理論が、プラグマティズム的な「解釈」の理論へと移行する必然性の考察でもある。

(6) 他者を理解する技倆
 ――再度「コミュニケーション」について――
  〔『現代思想』第173号(1989 3 月号)、130-142 頁〕
 (3)につづき、"A Nice Derangement of Epitaphs" など比較的最近の仕事にあらわれたデイヴィッドソンのコミュニケーション論を取り上げる。特にここでは、「他者理解」の問題が、彼のホーリズムや「根源的解釈」の理論によってどう扱われるかを論じている。合意は、あらかじめ共有される言語の存在によってではなく、「思いやりの原理」のもと、そのつどの「経過的」な解釈理論を構成する一種の「技倆」によって成立するという発想と、その帰結としての「おなじひとつの言語」という観念の否定は、たいへん重要な問題提起であると思われる。

(7) 技倆としての真
 ――初期ハイデガーおよびデイヴィッドソンにおける「理解」の哲学――

  〔『横浜国立大学人文紀要』第一類・第40 (199410)98-116 頁〕
 現代哲学におけるコミュニケーション論を探究する連作の中の一編。ハイデガーが『存在と時間』第一編で展開する事実的日常性の構造分析を、技倆的な知識の問題として再解釈し、そこに含まれる他者理解や「真」の議論を、プラグマティズムの方向から評価しなおす。これによって、デイヴィッドソンの真理論やコミュニケーション論とハイデガーの議論とが実質的に問題視点を共有していることが明らかになる。

(8) 表象主義を超えて
 
――認知・コミュニケーション・文化をめぐる哲学的考察――」

 〔199529日、東北大学国際文化研究科での講演(未公刊)〕

 (9) アフォーダンスとミメーシス
 ――「自己の外へ出ること」の哲学――

  〔『現代思想』第276号(1999 5 月臨時増刊号「総特集:ハイデガーの思想」), 222-235 頁〕
 芸術論・文学論を視野の中心に据えたとき、ハイデガーをどう再利用するべきかという問題への当面の解答。彼の哲学の核心は反表象主義であり、表象化の根底にある動態としての〈外出〉(脱自、自己の外へ出ること)を論じる多面的な議論こそ、リサイクル可能な思想的資源である。〈外出〉とは身体的行為において直接的に存在者の存在に関わる人間のあり様を述べるものであり、アフォーダンス知覚や創作行為の直接性といった問題と関係づけて再解釈することができる。特に後者からは、「ミメーシス」の再規定を通して、芸術の本質についての新たな洞察が得られる。

(10)
隠喩と虚構
 
 〔野本和幸/山本友幸編『言語哲学を学ぶ人のために』、世界思想社、20028月、246-261 頁〕
 いわゆる「言語哲学」への本格的入門書の最終章。言語哲学は「意味論」をその中核とするが、現実の言語使用における発話解釈のメカニズムが問題になる中で、語や文が「字義通り」ではなく理解されるケース、つまり「隠喩」や「虚構」のような言語使用に関する研究も活発化してきた。ここでは、デイヴィドソン・関連性理論・ラマーク/オルセンなどの議論を参照しながら、こうした現象を通じて、発話解釈、ひいてはコミュニケーション一般の本質に迫ろうとする哲学的試みの概要を紹介する。同時にそれは、そのテーマからして、文学と哲学が出会う地点への誘いでもある。

(11)
言語を知ること、言語で伝えること
 
 〔栗原隆編『知の地平 ――大学におけるマルチリテラシーと応用倫理』、東北大学出版会、20033月、296-308頁〕

(12) 隠喩と伝達
  〔東北哲学会編『東北哲学年報』第19号(20034月)、61-68頁〕

(13) 『デイヴィドソン ――「言語」なんて存在するのだろうか』
(シリーズ・哲学のエッセンス)
  
〔日本放送出版協会(NHK出版)、20045月〕

(14)
脱自としての人間、陶酔としての芸術
 ――ハイデガーにおける存在論と芸術論の相関 ――
 
 〔原研二ほか編『多元的文化の論理 ――新たな文化学の創世へ向けて』、東北大学出版会、20055月、91-111頁〕

(15) 知覚のリアリティ
 ――『芸術としての力への意志』に見るハイデガーのアート哲学――

  〔『東北大学文学研究科研究年報』第56号(20073月)、107-131頁〕

(16) 新旧論争と17世紀の「言語」観
  〔科学研究費補助金研究成果報告書,『「新旧論争」に顧みる進歩史観の意義と限界、並びにそれに代わり得る歴史モデルの研究』、研究代表者:栗原隆(課題番号 18320007)、20083月、1-20頁〕
 

IV コラム・項目執筆、その他

(1) 修士論文:「カフカの作品における〈異和〉の力動と, その背景としての分裂病的な心的態勢」
 
19823, 東北大学大学院文学研究科提出の修士学位論文(未公刊)〕
(2) 「一気に書く」
 〔『現代思想』第14巻第12号(1986年)、246頁〕
(3) 「不気味なもの」
 〔横浜国立大学『広報』第114号(1990年)、1-3頁〕
(4)
「実存と多文化主義」
 〔『記号学研究16』(日本記号学会編)、東海大学出版会(1996年)、88-89頁〕
(5)
項目執筆:「カフカ『変身』」
 〔鷲田清一・野家啓一編『20世紀を震撼させた100冊』、出窓社(1998年)、60-61頁〕
(6)
項目執筆:「文体」
 〔野家啓一編『ウィトゲンシュタインの知 88』、新書館(1999年)、210-211頁〕
(7)
項目執筆:「エクリチュール」「クレオール」「コミュニケーション理論」「差異/差延」「受容美学」「生成文法」「脱構築」「ポスト構造主義」「ポストモダン」
 〔木田元編『現代思想フォーカス 88』、新書館(2001年)、23-2568,89-93111-112128141-143191-194195-197頁〕
(8) 「特集:ドイツ語圏におけるコミックとコミック研究・はじめに」
 〔『東北ドイツ文学研究』、第48号(20052月)、117120頁〕
(9)
「不条理文学を読む」
 
〔中村捷編『人文科学ハンドブック』、東北大学出版会(2005年)、108-111頁〕
(10) 「行為としての文学的経験」
 〔財団法人ドイツ語学文学振興会編『ひろの』第45号(2005年)、20-21頁〕
(11)
「言葉を嫌悪してはいけない」(梅木達郎追悼)
 〔東北大学フランス語フランス文学会編『フランス文学研究』第26号(2006年)、15-17頁〕
(12)
項目執筆:「アイロニー」「隠喩」「カフカ」「デイヴィドソン」「ユーモア」「レトリック」
 〔大庭健編集代表『現代倫理学事典』、弘文堂(2006年)、5-658-59120603643886-887頁〕
(13)
編著:『文学における不在 ――原研二先生追悼論文集』
 〔嶋崎啓・田村久男・里村和秋・斎藤成夫と共編(編集代表)、原研二先生追悼論文集刊行会刊、201111月〕
(14) 「レトリックと教養」
 〔『曙光 東北大学全学教育広報』第45号(2018年)、3-5頁〕
 

◆翻 訳

(1) フィリップ・フォルジェ編『テクストと解釈』、産業図書、1990年。
  Philippe Froget (hrsg.), Text und Interpretation, München:Fink, 1984.
 (共訳者:三島憲一、轡田収、関本英太郎、足立信彦、石原次郎)
(2)
クリストファー・ノリス『脱構築的転回――哲学の修辞学』、国文社、1995年。
  Christopher Norris, The Deconstructive Turn: essays in the rhetoric of philosophy, London: Methuen, 1983.
 (共訳者:野家啓一、有馬哲夫)
(3) マリアン・ホブソン「歴史と痕跡」
  Marian Hobson, "History traces", in Derek Attridge et.al.(eds.), Post-structuralism and The Question of History, Cambridge: Cambridge University Press, 1987.
 〔『現代思想』vol.17-2 19892月号)〕
(4) ルイス・ビンフォード/コリン・レンフルー「人間学としての「新しい考古学」」
  Lewis Binford/Collin Renfrew, "An Interview with Lewis Binford", in Current Anthropology, vol.28-5(Dec.1987).
 〔『現代思想』vol.18-12 199012月号)〕
(5)
フーゴー・シュタム『カルトの構図』、青土社、1996年。
  Hugo Stamm, Sekten, Zürich:Kreuz, 1995.
 (共訳者:村井翔、山本泰生)
(6)
ウィレム・デヴリース「ヘーゲルの心の哲学」
  Willem deVries, Hegel's Theory of Mental Activity, Ithaca: Cornell University Press, 1988  (Chapter 2 and 3).
  加藤尚武・座小田豊編『続・ヘーゲル読本』、法政大学出版局、1997年。
(7)
ハンス・ヨナス『責任という原理』、東信堂、2000年。
  Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung, Frankfurt am Main: Insel Verlag, 1979.
 (共訳者:加藤尚武〔監訳〕、山本達、盛永審一郎、鈴木崇夫、藤野寛、三富明、古田裕清)
(8)
ジョン・ホーグランド「現存在の開示性」
  John Haugeland, "Dasein's Disclosedness," in Hubert L. Dreyfus and Harrison Hall (eds.), Heidegger: A Critical Reader, Oxford: Basil Blackwell, 1992.
  門脇俊介・信原幸弘編『ハイデガーと認知科学』、産業図書、2002年。