東北大学中国語学文学論集 第2号(19971130日)

   

『鍾伯敬先生批評三国志』について

 

 諭

   

 

 中国文学史上において、古来「小説」というものは「怪力乱神」に属するものとして、文学としての正当な扱いは、少なくとも表向きは受けてこなかった。しかし明代も中期を過ぎると、従来の小説観に少しずつ変化が見られ、「小説」も文学としての地位を少しずつ高めていくことになった。特に李卓吾が『焚書』の中の「童心説」で、『西廂記』と『水滸伝』を「天下の至文」と述べて、経書と並ぶ、あるいはそれ以上のものとして評価してからは、「小説」も文学作品として文学批評の対象にされるようにもなってきた。実際李卓吾自身『水滸伝』に批評をつけていた。

 折しも古文辞派と反古文辞派の論争の中、世に多くの文学者・文学批評者の名前が知られるようになった。そうしてそれらの人々が批評を加えたと称する小説の版本が登場してくるようになる。それは数多くのエディションを持つ『三国志演義』でも例外ではない。『三国志演義』の場合、李卓吾の名前を冠した『李卓吾先生批評三国志』、竟陵派の領袖鍾惺の名前を冠した『鍾伯敬先生批評三国志』などがそれである。

 『鍾伯敬先生批評三国志』(以下「鍾伯敬本」と略称する)は、全部で二十巻あり、また百二十回に分かれる。すなわち一巻ごとに六回が収められていることになる。また各回は二則に分かれる。各巻巻頭の書名に続いて「景陵鍾伯敬父批評/長洲陳仁錫明卿父較閲」とある。封面・序文・目録などは伝わらない。版式は半葉十二行行二十六字。匡郭上部に眉批があり、また各回の終わりに「総評」がある。版心の下の部分に時折「積慶堂蔵版」と記される。現在では東京大学東洋文化研究所と天理大学図書館に蔵される。また孫楷第『中国通俗小説書目』に著録される。

 この鍾伯敬本について、王長友氏と黄霖氏に論考がある。王長友氏は「《鍾伯敬先生批評三国志》探考」(1)の中で、鍾伯敬本の本文が『李卓吾先生批評三国志』(以下「李卓吾本」と略称する)の本文とほぼ一致すること、鍾伯敬本の批評の中に李卓吾本の批評が残っていることから、鍾伯敬本は李卓吾本を底本にしていること、東京大学東洋文化研究所蔵の鍾伯敬本には補刻があること、『鍾伯敬先生批評忠義水滸伝』と比較して、版式・補刻の個所の字体が酷似していることから、東文研蔵の鍾伯敬本は「積慶堂」という書肆が刊行したものを四知館(2)という書肆が補刻して刊行したものであること、鍾伯敬本の批評を書いたのは、巻頭に名前の挙がっている陳仁錫であること、を述べている。

 また黄霖氏は「関於《三国》鍾惺与李漁評本両題」(3)の中で、鍾伯敬本の本文は李卓吾本と同じであること、批評の多くは李卓吾評そのままであるが、中には李卓吾評に真っ向から反対する内容のものもあること、鍾伯敬本の批評は鍾惺自身や竟陵派の人々の手になるものではなく、民間の書肆が鍾惺の名に仮託したものであること、を述べている。

 王長友氏も黄霖氏も、鍾伯敬本の本文は李卓吾本と同じであり、鍾伯敬本は李卓吾本を底本としていること、鍾伯敬本の批評の中には李卓吾本の批評に反対する内容のものがあること、というのはほぼ一致した見解であろう。しかし鍾伯敬本の批評を付けたのは誰かなど、必ずしも二つの先行研究において一致していないところもある。

 そこで本稿では、王長友氏・黄霖氏の研究を踏まえた上で、鍾伯敬本について再検討し、『三国志演義』諸版本の中における鍾伯敬本の位置づけ、およびその性格を考えていこうとするものである。

 

 

 まず鍾伯敬本の刊行年を検討していくことにする。

 現存する鍾伯敬本には封面や刊記など刊行年を考えていく手がかりとなるようなものが伝わっていない。しかし版心に時折「積慶堂蔵板」とあって、鍾伯敬本と積慶堂という書肆との関連を窺わせる。この積慶堂という名前の書肆は、『明代版刻綜録』(4)・『小説書坊録』(5)を始めとする目録類にも見えない。わずかに『中国版刻綜録』(6)「明代版刻」の中に「金林積慶堂」刊行の書物として崇禎六年刊の『音韻日月灯』三十巻が著録されている。鍾伯敬本の版心に見られる「積慶堂」と『中国版刻綜録』著録の「金林積慶堂」が同じ書肆であるかどうかははっきりと分からないが、もし同じ書肆であるとするならば、鍾伯敬本の刊行年もおおよそ崇禎の初め頃と考えられる。しかし確証がないので、もう少し別の面から考えてみる必要があるだろう。

 鍾伯敬本の書名に「鍾伯敬」の名前が冠されているが、もちろんこれは『李卓吾先生批評三国志』の「李卓吾」と同様仮託に違いあるまい。(7)しかし仮託とはいえ『三国志演義』の一版本に「鍾伯敬」の名前が冠されるようになるのは、鍾惺や竟陵派がある程度有名になって以後のことであろう。したがって鍾伯敬本の成立年代を考えるにあたって、鍾惺の伝記は一つの手がかりになろう。そこで鍾惺の伝記を簡単に確認しておきたい。(8)

万暦二年(一五七四年) 生まれる。

万暦三十一年(一六〇三)  郷試合格

万暦三十二年(一六〇四年) 譚元春との交遊が始まる。

万暦三十八年(一六一〇年) 進士となる。

万暦四十二年(一六一四年) 譚元春と『詩帰』の編纂を始める。

万暦四十五年(一六一七年) 「詩帰序」を書く。『詩帰』が刊行される。

万暦四十七年(一六一九年) 『史懐』全九巻完成。

天啓二年(一六二二年) 『隠秀軒集』が刊行される。

天啓五年(一六二五年) 五十二歳で没。

 鍾伯敬の名前が世に知られるようになるのは、早くとも進士及第の万暦三十八年であろう。また竟陵派の活動を通して有名になるのは、『明史』巻二八八「鍾惺伝」に、

 自宏道矯王、李詩之弊、倡以清真、惺復矯其弊、變而爲幽深孤峭。與同里譚元春評選唐人之詩爲唐詩歸、又評選隋以前詩爲古詩歸。鍾・譚之名滿天下、謂之竟陵體。然兩人學不甚富、其識解多僻、大爲通人所譏。

とあることからすると、『詩帰』が刊行された万暦四十五年以降ということになる。したがって鍾惺の名前に仮託した通俗小説が現れ始めるのは、早くとも万暦年間の終わり頃であろうと考えられる。

 次に、「鍾惺編」・「鍾惺撰」、あるいは「鍾惺評」と題しているものが明末期の中でもいつ頃多く出版されていたのかを考えてみよう。『明代版刻綜録』に著録される明刊本の中から、仮託であるかどうかにかかわらず、「鍾伯敬」の名前が見えるものを、そこに記されている刊行年・書肆名とともに掲げてみる。

 ①「鍾惺編」・「鍾惺撰」などと題しているもの

  ・新李先生類纂音釈捷用雲箋十一巻

     鍾惺編 陳継儒評釈 万暦間 詹伯元刊

  ・古名儒毛詩解十六種三十四巻

     鍾惺輯 万暦間 金擁万堂刊

  ・秘書九種六十六巻

     鍾惺輯 万暦間 擁万堂刊

  ・蘇長公尺牘選二巻

     蘇軾撰 鍾惺編 万暦澄志堂刊

  ・詮次四書翼考十巻

     鍾惺撰 譚元春刪 万暦江陰郁氏玉樹堂刊

  ・隠秀軒詩集十巻文集二十六巻

     鍾惺輯 天啓二年 沈春沢刊

  ・楞厳経如説十巻

     鍾惺輯 天啓四年弘覚山房刊

  ・鍾伯敬先生遺稿四巻

     鍾惺撰 天啓七年 呉県徐波浪斎刊

  ・宋文帰二十巻

     鍾惺輯評 天啓集賢堂刊

  ・鍾伯敬先生秘集十五種十五巻

     鍾惺撰 崇禎元年(9) 葉舟刊

  ・古文備體奇鈔十ニ巻

     鍾惺輯黄道周評 崇禎十五年呉県書林兼善堂刊

  ・秦文帰十巻・漢文帰二十巻・南北朝文帰四巻・唐文帰八巻・宋文帰八巻

     鍾惺編 崇禎間 古香斎刊

  ・隠秀軒詩集三巻文集五巻

     鍾惺撰 崇禎間 近聖居刊

  ・鍾伯敬先生文集十一巻詩集五巻

     鍾惺撰 崇禎間 陸雲龍翠娯閣刊

  ・四六雲濤十巻

     鍾惺輯 崇禎書林文萃堂刊

  ・四六新函十三巻

     鍾惺輯 崇禎呉門書林童湧泉刊

 この他、竟陵派に関わるものとして、

  ・譚子詩帰十巻

     譚元春撰 譚元春嶽帰堂刊

  ・明詩帰十三巻

     譚元春撰 崇禎間 積秀堂刊

も著録がある。

 ②「鍾惺評」と題するもの

  ・鍾伯敬先生朱評詞府霊蛇四巻

     鍾惺・李光祚輯 万暦間 唐建元朱墨套印

  ・譚友夏鍾伯敬先生評綰春図伝奇二巻

     李孚中撰 万暦間 麟斎刊

  ・詩経

     鍾惺批点 万暦間 凌濛初刊朱墨套印

  ・史記一百三十巻 

     司馬遷撰 鍾惺評点 天啓二年大來堂刊

  ・史記集解索隠正義一百三十巻

     鍾伯敬評 天啓五年 鍾惺刊

  ・鍾伯敬先生批評忠義水滸伝一百巻百回

     施耐庵撰 鍾惺評 天啓間 楊金四知館刊

  ・新訂増補夷堅志五十巻

     洪邁撰 鍾惺評 天啓間 李玄暉鄧嗣徳刊

  ・詩経四巻

     鍾惺批点 天啓間 呉興凌杜若朱墨印

  ・水経注四十巻

     道元撰 鍾惺評 崇禎二年 古香斎刊

 以上のように、『明代版刻綜録』によれば、編纂者あるいは評者として「鍾伯敬」の名が見える本は、早いもので万暦の終わり頃、遅いもので崇禎のはじめにかけての頃に刊行されていることが分かる。

 鍾伯敬本には批評者として「鍾伯敬」の名前が挙がっているほか、較閲として「陳仁錫」の名前も挙がっている。陳仁錫は天啓二年に殿試に第三席で合格した後翰林院編修の任を授かり、天啓の終わり頃事件に巻き込まれて一時期失脚するものの、崇禎年間になってから、再び官に就き、万暦帝の実録を編纂したり、南京の国子監祭酒になったりした学者である。陳仁錫自身も著述がいくつかあるのであるが、有名な学者であっただけにその名前に仮託して様々な書物が出版されていても不思議ではない。今、やはり『明代版刻綜録』によって、編纂者として「陳仁錫」の名前が挙がっている書物を拾ってみると、以下のものが見られる。

  ・奇賞斎廣文苑英華二十六巻

     陳仁錫輯 天啓四年蘇州書林陳龍山酉酉堂刊

  ・続古文奇賞二十六巻

     陳仁錫輯 天啓四年蘇州書林陳龍山酉酉堂刊

  ・三続猿古文奇賞二十六巻

     陳仁錫輯 天啓四年蘇州書林陳龍山酉酉堂刊

  ・三編古文奇賞廣文苑英華二十六巻

     陳仁錫編 天啓四年古呉書林奇賞斎刊

  ・四続古文奇賞五十三巻

     陳仁錫輯 天啓五年蘇州書林陳龍山酉酉堂刊

  ・明文奇賞四十巻

     陳仁錫輯 天啓蘇州書林陳龍山酉酉堂刊

  ・資治通鑑大全四百三十一巻

     陳仁錫輯 崇禎二年呉県書林大観堂刊

  ・潜確居類書一百二十巻

     陳仁錫輯 崇禎三年呉県書林徐氏大観堂刊

  ・潜確居類書一百二十巻

     陳仁錫撰 崇禎五年経志堂刊

  ・陳太史無夢園初集十四巻

     陳仁錫撰 崇禎六年張一鳴刊

  ・無夢園遺集八巻

     陳仁錫撰 崇禎八年陳礼錫刊

  ・重校古周礼六巻

     陳仁錫撰 崇禎古煕堂刊

  ・潜確居類書一百二十巻

     陳仁錫輯 万暦金映雪草堂刊

  ・三苑大成三巻

     陳仁錫編譚元春刪 崇禎問龍館刊

 これによれば、編纂者として「陳仁錫」の名前が挙がっている書物は、おおよそ天啓のはじめから崇禎の中頃にかけて出版されていることがわかる。

 このことと先に示した編纂者・批評者として「鍾伯敬」の名前が挙がっている書物の刊行年をあわせて考えると、「鍾伯敬」と「陳仁錫」の二人の名前が同時に掲げられる書物が刊行されるのは、おおよそ天啓年間から遅くとも崇禎年間の初め頃までの間ではないかと推定できる。したがって鍾伯敬本『三国志演義』の刊行年もおおよそ天啓年間から崇禎年間のはじめにかけてであると考えられないだろうか。

 先に述べたように、黄霖氏は鍾伯敬本の刊行年は崇禎七年から崇禎十五年の間であると述べておられる。しかし『鍾伯敬先生批評三国志』と書名にとりたてて「鍾伯敬」の名前を掲げている書物は、たとえ仮託であれ明らかに「鍾惺」を意識していると見るべきである。ということはこの版本の刊行は鍾惺や竟陵派が人気を得ている時期に違いあるまい。鍾惺や竟陵派の人気が衰えた後にことさら「鍾伯敬先生批評」などと題したりはしないであろう。したがって鍾伯敬本の刊行年の下限は鍾惺の没後それほど時間がたっていない時期だと考えて差し支えあるまい。

 

 

 続いて鍾伯敬本とその他の『三国志演義』諸本との関係を考えてみよう。

 鍾伯敬本が『李卓吾先生批評三国志』を底本としていることについては、すでに王長友氏・黄霖氏に指摘がある。そしてその根拠は、鍾伯敬本の批評の多くは李卓吾本の批評を引用したものであり、また時に李卓吾本の批評に対して批判しているところがある、ということにある。確かに説得力のある議論だと思われる。しかしいずれの論文においても鍾伯敬本と李卓吾本の本文そのものについての比較は行われていないため、鍾伯敬本の批評は李卓吾本を踏まえているものの、本文は別の版本のものを用いたのではないか、という見方ができなくもない。細かい検討なしに鍾伯敬本の本文は李卓吾本の本文を用いていると断定できないのではないだろうか。そこで鍾伯敬本の本文は確かに李卓吾本を元にしているということも証明しておく必要が生じてくるのである。

 『三国志演義』諸版本は大きく三つの系統に分けられるのであるが、(10)鍾伯敬本の本文はその中でも二十四巻系諸本の本文にきわめて近い。そこで鍾伯敬本の本文を他の二十四巻系諸本と比べてみると、次のような例が見られる。場面は、荊州にいる劉表と仲違いをした孫堅は、江東より劉表討伐の兵を挙げた。一方迎え撃つ劉表側の大将は、劉表の妻の蔡夫人の兄である蔡瑁。蔡瑁は孫堅に戦いを挑んだが、孫堅軍の大将の程普に敗れ、襄陽城へ逃げ込んだ。孫堅は襄陽城を取り囲んだものの、しばらくは落とせないでいた。そんなある日強い風が吹いて孫堅軍の陣営に立てられていた旗が折れてしまう。そのことの吉凶を巡って孫堅と臣下の間で議論が起こる、というところである。(11)(版本間の違いがわかりやすいように、適宜空白をあけた。)

○鍾伯敬本 巻二 第七回「孫堅跨江戦劉表」  

  嘉靖本

  夏振宇本

  呉観明本

  鍾伯敬本

忽一日、狂風驟起、將中軍帥字旗竿吹折。程普曰「此不祥之兆也。」逕來帳下見孫堅曰「中軍帥字旗竿被風吹折。於軍不利也。可暫班師。」堅曰「吾累戰累勝、取襄陽只在旦夕、豈可因風折 旗竿而罷兵。」韓當曰「此旗乃軍中之主、亦不可輕易。」堅曰「風乃天地呼吸之氣、方今隆冬、朔風暴起、折斷大旗、何足爲怪。吾平生用兵、不信此等異事。只理會得攻城。」 
 

忽一日、狂風驟起、將中軍帥字旗竿吹折。程普曰「此不祥之兆也。」逕來帳下見孫堅曰「中軍帥字旗竿被風吹折。於軍不利也。可暫班師。」堅曰「吾勝、取襄陽只在旦夕、豈可因風折斷旗竿而罷兵。」韓當曰「此旗乃軍中之主、亦不可輕易。」堅曰「風乃天地呼吸之氣、方今隆冬、朔風暴起、折斷大旗、何足爲怪。吾平生用兵、不信此等異事。只理會得攻城。」 
 

忽一日、狂風驟起 
、將中軍帥字旗竿 
 
 

     被風吹折。于軍不利也。可暫班師。」堅曰「吾勝、取襄陽只在旦夕、豈可因風折斷旗竿而罷兵。」韓當曰「此旗乃軍中之主、亦不可輕易。」堅曰「風乃天地呼吸之氣、方今隆冬、朔風暴起、折斷大旗、何足爲怪。吾平生用兵、不信此等異事。只理會得攻城。」 
 

忽一日、狂風驟起 
、將中軍帥字旗竿 
 
 

     被風吹折。于軍不利也。可暫班師。」堅曰「吾勝、取襄陽只在旦夕、豈可因風折斷旗竿而罷兵。」韓當曰「此旗乃軍中之主、亦不可輕易。」堅曰「風乃天地呼吸之氣、方今隆冬、朔風暴起、折斷大旗、何足爲怪。吾平生用兵、不信此等異事。只理會得攻城。」 
 

 引用部分、嘉靖本は巻二、夏振宇本は巻一。周曰校本の文章は夏振宇本と文字の異同はない。この場面では、嘉靖本と夏振宇本の記述はほぼ同じと言ってもよいだろう。どちらも、ある日狂風が吹いて本隊の「帥」の字の旗が折れたため、程普は不吉であるから軍を引くよう孫堅に勧めたが孫堅は聞き入れず、次いで韓当も旗が折れたことの不吉を主張するが、孫堅はこれにも耳をかさず襄陽城を攻めようとした、という内容である。嘉靖本・夏振宇本の違いは文字の異同程度でしかない。

 しかし呉観明本には脱落が見られる。すなわち嘉靖本・夏振宇本の「中軍帥字旗竿吹折。程普曰、此不祥之兆也。逕来帳下、見孫堅曰」のおよそ二十五文字が呉観明本にはなく、「狂風驟起、将中軍帥字旗竿被風吹折~」となっている。そのために呉観明本では文章が前後でつながらず、読めなくなっている。

 そこで鍾伯敬本を見ると、呉観明本で脱落していた二十五文字は鍾伯敬本でも脱落していて、文意は通じない。このことから鍾伯敬本は、嘉靖本・周曰校本・夏振宇本よりは呉観明本に近い関係にあると考えられる。ただしこの呉観明本や鍾伯敬本の脱落は二度出てくる同じ文字群を混同したもので比較的起こりやすい脱落であるから、呉観明本・鍾伯敬本それぞれ独自で脱落を生じた可能性も否定できない。しかしながら呉観明本の中にこうした脱落は数ヶ所あり、かつ鍾伯敬本も呉観明本のそうした脱落をそのまま踏襲していて、呉観明本に例に示したものと同様な脱落がありながら、鍾伯敬本にはその脱落が見られないということはない。別々の版本の中に同じ誤りが複数の個所において見られるというのは、それぞれの版本で独自に誤りを生じた可能性をまったく否定することは出来ないけれども、むしろその両本に密接な関係を認めるべきなのではないだろうか。以上のことから、鍾伯敬本の本文は李卓吾本の本文と密接に関係していると考えられるのである。

 次に李卓吾本と鍾伯敬本の先後関係が問題となろう。しかしこれについては、すでに王長友氏・黄霖氏に指摘があるように、鍾伯敬本の批評が李卓吾本の批評を参照している事実がある。さらにまた李卓吾と鍾惺の生年および卒年からして、活躍した時代は当然李卓吾の方が鍾惺よりも早い時期であり、したがって李卓吾本の方が鍾伯敬本よりも先にできたと考える方が自然であろう。こうしたことから、鍾伯敬本は李卓吾本の本文・批評の両方を踏まえて作られた版本であると考えられる。

 では鍾伯敬本は『李卓吾先生批評三国志』の中のどの版本にもとづいたのだろうか。筆者が調査し得た『李卓吾先生批評三国志』は呉観明本・緑蔭堂本・藜光楼本の三種である。このうち緑蔭堂本・藜光楼本は清代になってからの刊行であるから、明末天啓年間頃の刊行である鍾伯敬本がこの二本を底本とすることはあり得ない。

 残りの呉観明本と鍾伯敬本の関係はどうであろうか。呉観明本も鍾伯敬本もおおよそ天啓年間頃の刊行であり、どちらが早いかは容易に判断できない。しかし次のような例は注目に値する。諸葛孔明の七度目の南蛮征伐の時、孟獲に請われて援軍を率いて蜀軍を攻めにやってきた烏戈国の王兀突骨のいでたちについて、各版本は次のように記している。(12)(鍾伯敬本巻十五「諸葛亮七擒孟獲」。李卓吾本は第九十回。)

  夏振宇本:頭戴日月狼鬚帽、身披金珠纓絡…

  呉観明本:頭戴日月狼帽、身披金珠纓絡…

  緑蔭堂本:頭戴日月狼鬚帽、身披金珠纓絡…

  藜光楼本:頭戴日月狼鬚帽、身披金珠纓絡…

  鍾伯敬本:頭戴日月狼帽、身披金珠纓絡…

二十四巻系諸本の中で李卓吾本に先んずる夏振宇本では「日月狼鬚帽」となっているが、呉観明本は「日月狼帽」と「鬚」の字が「」に誤っている。(この「」という字は存在しない。)ところが同じ李卓吾本でも清代の刊本である緑蔭堂本と藜光楼本は「日月狼鬚帽」と「鬚」の字は誤っていない。李卓吾本諸本は版式が同じであり、版面も酷似していて、覆刻を繰り返して作られたものである。明代の李卓吾本である呉観明本が「」に誤り、清代の李卓吾本の刊本である緑蔭堂本・藜光楼本がその個所を誤ることなく正しい「鬚」の字に作っているということは、緑蔭堂本や藜光楼本が基づいた李卓吾本は「鬚」の字を「」に誤っていなかったのではないだろうか。そしてそのことはとりもなおさず明代に刊行された李卓吾本には、呉観明本のように「」に誤るもの、「鬚」のまま誤っていないものそれぞれが存在していたということであろう。

 さて鍾伯敬本の該当個所を見ると、「日月狼帽」と呉観明本同様「鬚」の字を「」の字に誤っているのである。ということは、鍾伯敬本が基づいた李卓吾本はこの個所の「鬚」の字を「」に誤っていたものであるということであろう。そしてそれは呉観明本である可能性は極めて高いのではないだろうか。

 確かに明代には呉観明本以外にも李卓吾本が存在していたであろうし、その中には呉観明本同様「鬚」を「」に誤っていた李卓吾本も存在していた可能性は十分にあり得る。この点を考慮すれば、鍾伯敬本の底本は、呉観明本そのものか、あるいは呉観明本と非常に近い関係にある李卓吾本であると考えるべきであろう。

 

 

 続いて鍾伯敬本に施されている批評について検討してみよう。

 鍾伯敬本の批評について、すでに王長友・黄霖両氏が指摘しているように、鍾伯敬本の批評の多くは李卓吾評そのままであるが、中には李卓吾評に真っ向から反対する内容を持つものもある、という点が認められる。この点に関しては筆者も異論があるわけではない。しかし李卓吾評と鍾伯敬評で批評の内容が異なっている場合、それぞれどのように違っているのかということについてはあまり深く検討されていない。しかしながらこの二つの批評の違いは両者の『三国志演義』の読み方の違いを決定づける重要な問題を抱えているはずである。したがって筆者なりに鍾伯敬評を李卓吾評と比較検討して、鍾伯敬評の特徴、すなわち鍾伯敬評による『三国志演義』の読み方を考えてみたい。なお取り上げる批評は、鍾伯敬評と李卓吾評を比較することから、各回の総評および本文の欄上にある眉批で鍾伯敬評と李卓吾評で本文の同じ個所に付けられたものを取り上げる。

 まず鍾伯敬評と李卓吾評で、その内容に違いが見られない場合を見てみよう。その場合、多くは鍾伯敬評が李卓吾評をそのまま用いている。たとえば第五回「曹操起兵伐董卓」、董卓配下の武将の華雄が袁紹・曹操率いる反董卓軍に戦いを挑んできた。袁紹配下の武将二人が迎え撃ちにでていったが華雄にあっけなく斬られてしまう。一同驚いているところに名乗りを上げたのが関羽である。その部分の本文は次のようになっている。

○呉観明本 第五回 「曹操起兵伐董卓」

曹操曰「據此人儀表非俗、華雄安知他是弓手。」關某曰「如不勝、請斬某頭。」操教熱酒一盃、與關某飲了上馬。關某曰「酒且斟下、某去便来。」出帳提刀、飛身上馬。衆諸侯聽得關外鼓聲大震、喊聲大擧、如天摧地、岳撼山崩。衆皆失驚、却欲探聽、鸞鈴響處、馬到中軍、雲長提華雄之頭、擲於地上。其酒尚温。

 そしてこの場面に対する李卓吾評は、

一弓手今且爲王爲帝爲天尊矣。袁氏兄弟四世三公今何在也。

である。また鍾伯敬本の同じ個所の本文は、

○鍾伯敬本 巻一 第五回 「曹操起兵伐董卓」

曹操曰「據此人儀表非俗、華雄安知他是弓手。」關某曰「如不勝、請斬某頭。」操教熟酒一盃、與關某飲了上馬。關某曰「酒且斟下、某去便來。」出帳提刀、飛身上馬。衆諸侯聽得關外鼓聲大震、喊聲大擧、如天摧地、岳撼山崩。衆皆失驚、却欲探聽、鸞鈴響處、馬到中軍、雲長提華雄之頭、擲於地上。其酒尚温。

となっていて、呉観明本とほぼ同文である。そして批評も、

一弓手今且爲王爲帝爲天尊矣。袁氏兄弟四世三公今何在。

であって、文末の「也」の字の有無の違いがあるが、それ以外は全く同じであり、これは鍾伯敬評が李卓吾評をそのまま用いていることは明らかであろう。

 総評においても同じことが認められる。第四十五回回末にある李卓吾本の「総評」は次のようにある。

 人生在世、驚天動地的事也要幹得一兩件、此後便可高枕而臥矣。如雲長斬得顔良・文醜、曹操・孫權都不敢正目而視、即周郎有意圖玄徳、見雲長在側、膽自碎矣。

 鍾伯敬本の第四十五回総評もこれと同文である。すなわち鍾伯敬本の批評は李卓吾本の批評をほぼそのまま引用しているのである。

 以上は鍾伯敬評が李卓吾評の言葉をそのまま用いた例であるが、その一方で鍾伯敬評が李卓吾評と同じことを述べていながらも、李卓吾評の言葉を言い換えたり省略したりしている場合もある。たとえば第二十五回回末の総評はそれぞれ次のようになっている。

○李卓吾評

 雲長處事詳慎周密、不以蒼皇而苟且也、所以老瞞雖奸如神鬼、無所用之。正氣自能勝邪氣也、吾輩永以爲師程可也。

 今見關廟対聯極多、雅俗不等、反不如用「馬奔赤兔翻紅霧、刀偃青龍起白雲」一聯爲妥也。余舊有題關廟桃花一聯云「屋角桃花留漢色、簾前燭影照忠魂。」不知有當忠義否也。

 雲長推遜翼徳、一以奪老瞞之魄。一以壯玄徳之威、一以破諸人之膽、一以固自己之藩。真聖智也、何可及哉。

○鍾伯敬評

 雲長義氣深重、孟徳素敬服之、然百般奉承、不能得他一降、可見忠義既立、奸邪無所用也。其刺顔良、已破諸人之膽。復遜翼徳、益奪老瞞之魄。

 鍾伯敬評の文章は、ここに示した李卓吾評の始めと終わりの部分を取り出し、所々省略したり、言葉を書き改めたりしたものになっている。李卓吾評と鍾伯敬評で同じ内容のことを述べていても、このような例も少なからず存在するのである。

 鍾伯敬評と李卓吾評が異なる内容を述べている場合、鍾伯敬評が李卓吾評を引用してそれに反論を加える場合場合と、単純に李卓吾評と別の(反対の)ことを述べているとがある。たとえば第四回、董卓暗殺に失敗した曹操は都を逃げ故郷に向かう途中、罪人として追われる曹操をかくまった県令の陳宮とともに、曹操の父親の義兄弟である呂伯奢の家にたどり着いた。呂伯奢は曹操をもてなそうとごちそうの準備をし、自らは酒を買いに出かけるが、疑心暗鬼になっている曹操は呂伯奢の家の者を皆殺しにし、さらに呂伯奢まで斬り捨ててしまう。そして「寧ろ我をして天下の人を背かしむるも、天下の人をして我を背かしむる休()かれ。」という台詞を吐く。この話に対する李卓吾本と鍾伯敬本の第四回総評は次のようになっている。

○李卓吾評

孟徳殺伯奢一家、誤也、可原也。至殺伯奢、則悪極矣。罪大矣、可恨矣、可殺矣。更説出「寧使我負天下人、休教天下人負我。」二語、讀史者至此、無不欲食其肉而寝其皮也。不知此猶孟徳之過人處。試問天下人誰不有此心者、誰復能開此口乎。故吾以世人之心較之、猶取孟徳也。

○鍾伯敬評

孟徳殺伯奢一家、誤也、可原也。至殺伯奢、則悪極矣。罪大矣、可恨矣、可殺矣。更説出「寧使我負天下人、休教天下人負我。」二語、讀史者至此、無不欲食其肉而寝其皮也。李卓吾謂孟徳之過人處、真謬論哉。

 両方の批評とも、前半部分は呂伯奢の一家を殺したのは誤りだからしょうがない、しかし呂伯奢を殺したことは悪の極みであり罪が大きい、と述べていて、李卓吾評・鍾伯敬評ともに同じ内容である。そしてこれは鍾伯敬評が李卓吾評の言葉をそのまま用いたものであろう。しかし後半部分、「寧ろ天下の人をして~」の言葉に対しては、両者で評価が異なっている。李卓吾評ではこの天こそが「曹操の人に優れたところ」といっているのに対し、鍾伯敬評では「李卓吾が「孟徳の人に過ぐる処」と言っているのは、まことに誤った議論である。」と述べていて、李卓吾評を引用して、それに対して反論している。

 また別の例。第三十四回、荊州の劉表配下の武将である蔡瑁による暗殺計画を察知した劉備は的盧馬(劉備が劉表からもらった馬。主人に災いを及ぼす馬とされる。)に乗って逃げていく。劉備が逃げたことを知った蔡瑁は後を追いかけ、劉備は谷間に追いつめられる。しかし的盧馬は劉備を乗せたまま谷間を飛び越え、劉備は逃げおおせることができた、という場面があるのだが、この回の総評はそれぞれ次のようになっている。

○李卓吾評

的盧妨主、其言甚験。畢竟劉表是主、救玄徳而去、非妨劉表而何。余之註脚的盧者如此、聊發讀者一笑而已。

○鍾伯敬評

人言的盧妨主、余觀玄徳英主檀渓逃難、此馬一躍三丈、飛上西岸、的盧不啻千里龍駒、能救主耳、誰云妨主哉。

 李卓吾評では的盧馬が劉備を逃がしたということは劉表にとって災いであるから、「主人に災いを及ぼす馬」という言葉は当たっている、と言っている。それに対して鍾伯敬本は、的盧馬は劉備を逃がしたのだから主人を救ったのであって、「主人に災いを及ぼす」というのは当たっていない、としている。このように両者で見解が異なっているが、ここでは鍾伯敬評は最初から李卓吾評と異なることを述べており、李卓吾評を引用してそれに対して反論しているのではない例である。

 このように鍾伯敬評が李卓吾評と異なった見解を述べている場合、おおよそ鍾伯敬本の方が比較的穏当で素直な解釈をしているようである。たとえば先に挙げた第三十四回の総評について、的盧馬が劉表から劉備に与えられた段階で、的盧馬の主人は劉備であり、的盧馬はこの後劉備の愛馬として常に劉備とともにある馬である。そういう馬が追いつめられた劉備を乗せて谷を飛び越えたというのは、普通の読者にとってはやはり「主人を救った」という印象の方が強いのではないだろうか。したがって李卓吾評のように解釈するよりは、鍾伯敬評のような読み方の方が自然な読みだと思う。

 もう一つ別の例を見てみよう。。第八十五回「白帝城先主託孤」、呉の陸遜との戦いに敗れた劉備が白帝城に逃げ込み、成都から諸葛孔明らを呼び寄せ、自分が息を引き取った後のことを託す、という劉備が死ぬ間際の場面である。李卓吾本の本文は、

○呉観明本 第八十五回 「白帝城先主託孤」

先主請起孔明、一手掩涙、一手執其手曰「朕今死矣、有心腹一言以告之。」孔明曰「願陛下勿隠、臣當拱聽。」先主泣曰「君才十倍曹丕、必能安邦定國而成大事。若嗣子可輔、即輔之。如其不才、君可自爲成都之主。」

とあり、劉備が諸葛孔明に「跡継ぎの太子(劉禅)が補佐するに値するのなら補佐し、補佐する値のない人物であれば孔明自身が太子にとって代われ。」と遺言する。この劉備の言葉に対して李卓吾評は、

只此一語、便奪孔明之魄。玄徳真奸雄哉。

と評している。すなわち、この言葉でもって劉備の死後蜀の地の君主となろうとする諸葛孔明のもくろみを奪ってしまった、劉備はまことに奸雄である、という解釈である。しかし鍾伯敬本では、本文は、

○鍾伯敬本 巻十五 第八十五回 「白帝城先主託孤」

先主請起孔明、一手掩涙、一手報(ママ)其手曰「朕今死矣、有心腹一言以告之。」孔明曰「願陛下勿隠、臣當拱聽。」先泣曰「君才十倍曹丕、必能安邦定國而成大事。若吾嗣子可輔、則輔之。如其不才、君可自爲成都之主。」

とあって、李卓吾本とほぼ同文である。しかしその批評は、

真実不欺之言。

となっていて、劉備の諸葛孔明に向かっていった言葉は真実の偽らざる言葉である、すなわち劉備は本当に「太子劉禅が補佐するに値しなかったら、その地位を孔明に取って代わってもらいたい。」と思っていた、という読み方である。これは鍾伯敬評の李卓吾評に対する反対意見なのであろうが、それこそ「人の将に死せんとするや、其の言や善し。」なのであって、鍾伯敬評のような読み方の方が、むしろ自然な読み方なのではないだろうか。

 このように見てくると、鍾伯敬評は本文の字面の表面を素直に文字通り受け取っており、逆に李卓吾評は本文の字面の裏側を読みとろうとしているのではないか、と思えてくる。しかし必ずしもそうとは言えない。次のような例も見られるのである。第五十六回「曹操大宴銅雀台」、建安十五年に曹操の長年の夢であった銅雀台が完成し、曹操は多くの文官武官たちを集めて祝賀の宴会を開いた。武官たちは曹操の前で武芸を披露し、文官たちは銅雀台のすばらしさと曹操の徳を詠んだ詩を披露する。そしてその後曹操が文官武官たちに向かって次のように言う。

○呉観明本 第五十六回 「曹操大宴銅雀台」

操遂賞鍾、而對衆文武曰「狐本愚庸、始擧孝廉、聊立微名於世耳。後値天下大亂、故以病回郷里、築精舎於東五十里、欲秋夏讀書、春冬射獵、爲二十年之計、以待天下清平、方出仕耳。然不能如意、朝廷征孤爲點軍校尉、遂更其意、專欲爲國家討賊立功、圖死後得題墓道曰『漢故征西將軍曹侯之墓』、使不辱於祖宗、此平生願足矣。…」

 この曹操の台詞はこの後もまだまだ続く。さて、この個所に対して李卓吾評は、

真情實話、並不是奸雄欺世語。

という批評をつけている。一方鍾伯敬本の同じ個所の本文は、

○鍾伯敬本 巻十 第五十六回 「曹操大宴銅雀台」

操遂賞鍾、而對衆文武曰「狐本愚康(ママ)、始舉孝廉、聊立微名於世耳。後値天下大亂、故以病回郷里、築精舎於東五十里、欲秋夏讀書、春冬射獵、爲二十年之計、以待天下清平、方出仕耳。然不能如意、朝廷徴孤爲點軍校尉、遂更其意、專欲爲國家討賊立功、圖死後得題墓道曰『漢故征西将軍曹侯之墓』、使不辱於祖宗、此平生願足矣。…」

とあり、その部分には、

此皆奸雄欺世語。

という批評がつけられている。これまで見てきたものは、鍾伯敬評の方が本文の字面をそのまま受け取った解釈をしていたのだが、ここに示した個所ではそれとは逆に、李卓吾評の方が本文の字面の表面に書かれていることをそのまま受け取って解釈し、鍾伯敬評の方が字面の裏側を読もうとしているようである。

 このような批評がつけられているというのは、それぞれの批評において曹操や劉備・諸葛孔明などの登場人物に対する評価の違いに由来するのではないだろうか。すなわち、李卓吾評では曹操に必ずしも悪役一辺倒の役割を与えているわけではなく、また劉備や諸葛孔明に「善玉」あるいは物語中の聖人君子としての役割だけを与えようとしているのではないのである。つまり登場人物を単純な類型に当てはめるようなことはせずに、登場人物たちの性格に多面性を持たせようとしている読み方をしているのが李卓吾評なのではないだろうか。だからこそ李卓吾評の中に、劉備や諸葛孔明のことを悪く言った批評が現れるのであろう。(そしてこれは後に毛宗崗によって非難されることになるのであるが。)こうした李卓吾評の試みは『三国志演義』の一つの特色ある読み方を示したところに新味を見出すことができるであろう。しかしながらそのためにいささか無理な読み方をしているところがあるのも否めない。たとえば先に示した第三十四回の的廬馬に対する批評はその一つであろう。また次のような例も見られる。第三十八回「定三分亮出茅廬」、三顧の礼で諸葛孔明にやっとのことで会えた劉備は「天下三分の計」を授かる。そして劉備は是非に軍師として力を貸してほしいことを諸葛孔明に頼む場面である。鍾伯敬本の本文は、

○鍾伯敬本 巻七 第三十八回 「定三分亮出茅廬」

玄徳苦泣曰「先生不肯救濟生靈、漢天下休矣。」言畢、涙沾衣襟袍袖、掩面而哭。

とあり、劉備は涙を流し、声をあげて泣いて訴える。この劉備の行為に対して鍾伯敬評は、

真情所感。

と評している。一方の李卓吾本の本文は、

○呉観明本 第三十八回 「定三分亮出茅廬」

玄德苦泣曰「先生不肯救濟生靈、漢天下休矣。」言畢、涙沾衣襟袍袖、掩面而哭。

とあって、鍾伯敬本の本文とほとんど違いはないが、その批評には、

玄徳之哭、極似今日妓女、可發大笑也。

とある。ここで「妓女」まで持ち出して劉備が泣きながら孔明に訴えるという行為を否定するのは、いささか無理な読み方ではないかと思われる。こうした読み方は必ずしも成功しているとはいえないのではないだろうか。

 こうした李卓吾評に対して、鍾伯敬評は、曹操には悪役を、劉備には聖人君子としての役割を、諸葛孔明にはその劉備を補佐する人物としての役割を与え、物語の中における登場人物の類型を比較的はっきりさせている。そのことによって李卓吾評に比べてすっきりとしており、わかりやすい読み方になっているといえよう。先に挙げた第五十六回の曹操の台詞に対する批評にしても、曹操を物語の中の“悪人”として捉えているのであれば、それほど無理な読み方をしているわけではなく、むしろ文脈に素直に沿った穏当な読み方であろう。このように鍾伯敬評は登場人物にある一つの類型を当てはめることによって読者にわかりやすい読み方を示している。しかしそれは同時に登場人物たちの性格を単純化することにもなっている。この点では面白味に欠ける読み方となっており、そしてこれが鍾伯敬評の欠点なのではないだろうか。

 

 

 以上で『鍾伯敬先生批評三国志』がいつ頃刊行された版本なのか、『三国志演義』諸版本の中でどのような位置づけにあるのか、そして「鍾伯敬評」はどのような特徴を持った批評であるのか、ということについて考えてきた。鍾伯敬本は、その本文・批評とも、それに先行する李卓吾本を元にして作られて版本なのであるが、本文こそ李卓吾本のものをほぼ忠実に受け継いでいるが、批評は李卓吾評を受け継ぎながらも、李卓吾評とは異なった面を打ち出そうとする姿勢が窺われる。ここに明末の時期において、『三国志演義』が様々な読まれ方をしていたのではないかということが想像される。

 明末の時期における『三国志演義』の批評といえば、余象斗本における余象斗の批評がある。余象斗本は、その刊記によれば、万暦二十年(1592)の刊行である。つまり李卓吾本や鍾伯敬本よりも早い時期に刊行されているのである。しかも余象斗本は李卓吾本や鍾伯敬本とは異なる系統に属する版本である。系統が異なる版本であるだけに、お互いに影響関係にはない。そうした版本がいかなる批評をつけているか、そしてそれが李卓吾本や鍾伯敬本とどのように違うのか(同じであるのか)ということは、重要な問題であろう。余象斗本の批評を検討し、それと李卓吾評・鍾伯敬評との共通点・相違点を考えていく必要があるのではないだろうか。そうした作業を通して、清代になって現れた『三国志演義』の決定版ともいうべき毛宗崗評を見ていくことにより、『三国志演義』批評史の新たな一面が見えてくるのではないかと思う。