東北大学語学文学論集 第3号(
1998年11月30日)
閩
南語韻書研究略史野間 晃
本編は、閩南語音系を記述した主要な韻書が、今までどの様に研究され、どの様な研究成果をあげてきたのかについて、その概略を述べようとするものである。個々の韻書についてそれぞれ記述すると煩瑣になるので、記述された下位方言により、泉州系韻書と、書名に“十五音”を持つ漳州系韻書に分けて論ずることとしたい。なお「十五音」という名称は、広義では「戚林八音」に始まる、閩語音を記述した福建の地方韻書の総称に用い、狭義では特にそのうちの、『彙集雅俗通十五音』に始まる漳州系韻書を指す。以下の文中においては、その都度言及しない限り、狭義の意味で用いることとする。論考を引用する際は、その著者名・出版年のみを記す。詳細については、本編末の「引用文献一覧」を参照されたい。
1.閩南語韻書の総合的研究
はじめに、閩南語韻書を総合的に研究した業績について言及しておきたいと思う。
葉國慶
1929・薛澄清1929は、いずれも小論ではあるが(広義の)「十五音」の全容を示した初めてものである。葉國慶1929の始めにある“方言分支表”は、福建方言を互いに通じるか否かを基準に9系統に分けたもので、近年の方言調査による分類に非常に近い。(広義の)「十五音」については、その由来と用法、音価の推定、“國音”との関係・差異などを簡略に示す。薛澄清1929は、閩南語音研究の意義(古音保存、歴史研究との関連など)や(広義の)「十五音」の効用(因音求字)を説く。ことに編者や版本(特に漳州系「十五音」)については、詳細に記述している。いずれも「十五音」の音価を推定しているが、その根拠は示されていない。王育徳
1968aは、閩音系の共時論的研究と通時論的研究を目的としたものであるが、Ⅱ.本論の4.「十五音」において、閩方言の共時論的研究の一次的資料の一つとして漳州音を記述した「十五音」を用いるため、(広義の)「十五音」の系譜・版本・研究史に言及している。陳永寶
1987は、音韻面から閩南語と客家語の相互関係を探ろうとしたものであるが、「貳、閩南語韻書――十五音」は、「戚林八音」から始まる閩方言韻書を概観、閩南方言韻書については、各種の版本をその影片をあげて紹介し、音系を再構成している。台湾の閩南語を記述した『彙音寳鑑』については、特に詳細な解説を加えている。洪
1993經は、閩南語を記述した代表的な韻書・字典のうち、入手困難で再版可能なもののうち、次の13編を集め影印出版したものである(< >内は分冊を示す):<1.泉州方言韻書三種>
一、黄謙『増補彙音妙悟』(道光辛卯
(1831)年、薫園藏版)二、黄謙『詳註彙音妙悟』(光緒癸卯
(1903)年、集新堂藏版)三、廖綸璣『拍掌知音』
<2.漳州方言韻書三種>
四、謝秀嵐『彙集雅俗通十五音』(高雄慶芳書局影印本)
五、壷麓主人序『増補彙音』(民国
17(1928)年上海大一統書局石印本)六、無名氏『渡江書十五音』(手抄本)
<3.福建方言字典>
七、
W.H.Medhurst『A Dictionary of The Hok-kn Dialect』(1837年)<4.厦英大辭典>
八、
Carstairs Douglas『Chinese-English Dictionary of The Vernacular or Spoken Language of Amoy』(
1873年)九、
Thomas Barclay『Supplement to Dictionary of The Vernacular or Spoken Language of Amoy』(1923年)<5.日臺大辭典><6.日臺大辭典>
十、臺灣總督府《日臺大辭典》(明治
40(1907)年)<7.臺日大辭典><8.臺日大辭典>
十一、臺灣總督府《臺日大辭典》(昭和6
(1931)年・昭和7(1932)年)<9.台湾語常用語彙>
十二、王育徳《台湾語常用語彙》(
1957年)<
10.臺灣十五音辞典>十三、黄有實《臺灣十五音辞典》(民国
61(1972)年)洪氏はそれぞれの文献について、以下の内容を持った解題を付した:
1、字母音読対照表
5、閩南語辞書の歴史上における地位
特に各文献の音系に関する記述は詳細で、前人の研究や方言調査の成果を広く集め、それらを批判吸収した上で音系の再構成に努めている。ただ分冊により各項目の記述の精粗にばらつきが見られるのは残念である。洪氏の研究の詳細については、以下各韻書に関する項で紹介することとしたい。
2.泉州系韻書
次に、泉州音及びそれに近い下位方言を記述した韻書、及びその研究史について概観しておきたいと思う。
【1】『閩音必辨』
閩南語を記述した現存最古の韻書である、『彙音妙悟』の編者黄謙の自序
吾泉富知園先生,少熟等韻之書,壯遊燕遼之地,諸任既該,羣音悉解,爰輯為閩音必辨一書,於脣喉齒舌分別釐然,郷里後生熟復之,可無為方言之所域矣。乃客有曰,是編以字而正音,何如因音以識字使農工商賈按卷而稽,無事載酒問字之勞乎。
とあり、それによると『彙音妙悟』に先行するものとして、等韻の学に通じた泉州人の富知園により、『閩音必辨』という書が編集されていたことが分かる。この書は今は失われてしまったが、“是編以字而正音”とあるところから、『彙音妙悟』の様に“以音求字”を目的とした韻書ではなく、一種の字書であったのではないかと考えられる。洪
1993經1は、当時福建においては「正音」の普及が計られていた事を紹介し、序に“可無方言之所域”とあることから、『閩音必辨』は、官話によって泉州音を正す書であったか、あるいは『彙音妙悟』の序が『閩音必辨』を継承したと言明していることから、正音の韻書ではなく、官話音を加え入れた泉州方言の韻書であったとも考えられるとし、注音法は、『彙音妙悟』と同じく『戚林八音』の影響を受けた反切法が使われていた可能性が大きいとしている。編者の富知園については、薛澄清
1929が『重纂福建通志』の記載を紹介して、十五音成立の源流を探る際に触れているほか、李三榮1969にも言及するところがあり(2)、『泉州府志』(乾隆28(1763)年刊、光緒壬午(1882)年重刊、「卷五十五 國朝文苑」)には、更に詳しい記載がある。それを要約すると:富允諧、字は信和、またの字は知園、別号は壽奴。晉江の貢生
(3)。若くして学問を好み、独学で古典に通じていた(4)。八股文を嫌い、郷試を受けたこともあったが、官途に就くことを潔しとしなかった。文章・詩・書法のいずれにも巧みであり、紳士達に重んじられた。特に詩をよくしたが、三十以後の作風は華やかさが取りはらわれた。丙戌・丁亥の年(5)、北方に遊び(6)、旅の途中では心情を文や詩に託した。都では名士達から尊ばれたが、高潔な性格から媚を売ることが出来ず疲れ、故郷に帰った。その後は閉門して売文により生計を立てた。壬子の年(7)、郡守より府志の編集に招かれた。伝記の多くはその手によるものである。允諧は長身で髯を蓄え、騎射や球技など諸競技のほか、天文律暦などの数学計算にも通じていたが、不遇のまま生涯を終わった。同書「卷七十四 藝文」には著書として、『禹貢參斷』・『漢書參斷』・『臨池博覽』・『九百稗談』・『閩音必辨』二卷・『投知草』二十卷があげられている。
【2】『彙音妙悟』
『彙音妙悟』は、泉州音を記述した韻書である。収録字の配列方法は、「戚林八音」と同じく韻母→声母→声調の順であるが、声調は、「戚林八音」の○や●とは違って、縦横の線で分割する方式であるため
(8)、収録字の多寡により記述に統一性が欠けて繁雑になり、「戚林八音」以上に誤りが発生しやすく、縦横の線がほとんど消えてしまっている版本もある。
[1]
総合的研究『彙音妙悟』を総合的に研究したものとしては、まず黄典誠
1980と周長輯1980がある。いずれも短編ではあるが、『彙音妙悟』の概要を適切に紹介し、問題点も提起しており、参考とすべき内容を多く含んでいる。黄典誠
1980は泉州の歴史から説き起こし、序から見た本書成立と編者の背景、戚林八音との継承関係、記述された音韻体系及びその現代泉州音系との違い、泉州音の文白異読と本書の収録状況を説き、本字の考証や本書に漏れている口語を個別に示している。本書が言語学史上に持つ意義として:1.“正音”を多く取り入れることにより、方言が全国民の(共通)言語に隷属する事を認識していたこと、2.漢語惡音化の先駆者として“三推新數法”を創造したこと、を挙げている。“三推新數法”というのは、同書の巻頭にある、声母・韻母・声調をそれぞれ序列順に数字化し、更に数字の一~十を筆画により図形化して、上に韻母、下右に声調、下左に声母を配し、それらを一文字の様にまとめて注音符号とする方法であり、その詳細は王爾康1983(9)に紹介されている。最後には“一點建議”として、同書の状態の悪さ、石印本の誤りの多さを挙げ、速やかに校訂増補が行われる事を望んでいる。周長輯
1980は、まず本書の序に基づいて本書成立の背景と編者、『戚林八音』との継承関係について、泉州方言を記述したと考えられる韻図『拍掌知音』は、本書に先行するという、黄典誠の説に賛意を表す。次に音系の再構成を行っているが、その際の参考資料として梨園戲・木偶戲・南曲などの地方劇で使われる読音と、方言調査の成果を挙げている。本書の音系と現在の泉州の音系との比較は、声母・韻母・声調についてそれぞれ詳細になされ、地域や話者の年齢による音の変化を挙げて、その変化の原因と時期などについて推測を行っている。また本書の編者である黄謙による、“漳腔・俗解・土解”などの各種注記を紹介、閩南語の文白異読の特徴について言及している。最後に“三推新數法”を紹介、漢字惡音化の先駆者であることを評価すると共に、実用面ではローマ字に敗れ普及しなかった事を指摘する。洪
1993經1は、洪氏の泉州音系に対する深い研究を背景とし、同辞書彙編の解題の中でも、最も詳細な内容のものとなっている。『彙音妙悟』の文献資料としての価値、版本成立の背景と編者、編集方式、研究史、音系の再構成、文語音の体系、『拍掌指音』の成立とその音系及び『彙音妙悟』の音系との関係、白話音の体系など、いずれの項目についても、前人の研究や最新の方言調査を消化吸収した上で独自の見解を多く示している。研究史においては、王育德1970、周長楫1980、李如龍・陳章太1982、王爾康1983、黄典誠1980、樋口1983、姚榮松1988、陳永寶1987の諸研究を紹介し、論評を加えている。最後には附表として、「一、泉州系方言音讀資料」(『彙音妙悟』の各韻目から例字を一つ挙げ、それに4文献と26地点の方言調査による記述を列記)、「二、文獻所載及各地泉州系方言韻母音讀對照表」(『彙音妙悟』の各韻目について、4文献(一、とは異なる)と7地点の方言調査による記述を列記)、三、「《彙音妙悟》各家擬音對照表」(各韻母について、7論考と洪氏による音価を対照させる)の三表を挙げる。洪氏の解題の内容の詳細については以下の項目に分けて述べることとする。
[2]
版本について洪
1993經1は、現在目にすることの出来る『彙音妙悟』の6種の版本を、その内容により:1.薫園藏版:字数は多いが錯字も多い。書名に「増補」を冠する。桐城黄澹川鑒定。
2.
福州集新堂藏版:字数は上記に比べ少ないが、1.が未収録の字も収める。錯字は少ない。書名に「詳註」を冠する。 ただ註解は1.と同じく簡略。洪氏は「桐城黄澹川鑒定」の文字がなく、字数も少ない事から、これが原本に近い可能 性もあるとする。3.
我園藏版:版が小さい。内容は「薫園藏版」に近い。以上の3系統に分け、体裁・内容・版本の特徴について解説している。洪氏によると、いずれの版本とも、封面の書名は“増補彙音妙悟”とされるが、編例の前には、“新鐫彙音妙悟全集
~~藏版 依字典校訂 柏山黄謙思遜纂輯”とあるという。体例「三推新數法」の最後は“一、是法專為忘記而作、非係大用、四方謀利者、若放樣翻刻便是”となっていて、翻刻を大いに認めているようであるが(10)、洪氏はこれを、本書の庶民的性格が突出されているものであるとする。
[3]
編者について『彙音妙悟』の各版本には、いずれも“嘉慶五
(1800)年正月上元日 愚叔黄瞻二大振 題於興安府學官署”とある序(11)と、それに続いて、“柏山主人 黄謙 思遜”による自序とがある。両名について、『重纂福建通志』(同治7(1868)年刊)及び『龍溪縣志』(光緒5(1879)年刊)には何ら記すところはないが、黄典誠1980は、伝聞に基づいて南安官橋文斗郷の人であるとしていて(12)、『彙音妙悟』の音系には、同安音の特徴が含まれていることを指摘している。また洪1993經1も、南安は晉江・安渓・同安の地に挟まれているが、氏自身の音系再構成によると、本書にはこの三地の成分が含まれており、その上晉江音と同安音が重出していることも、黄氏の説を裏付けるものであるとしている。黄謙の叔父黄大振は、嘉慶五年正月に陝西省興安府の学官を勤めていたと思われるが、『續興安府志』(13)には名前が見えない。いずれにせよ、周長楫1980の指摘する通り、当時の交通事情から考えて、本書の成立年代は1799年以前であり、着手されたのは更に以前であることは間違いないであろう。
[4]
音系について王育徳
1970は、『彙音妙悟』成立の背景・研究史・内容について簡単に触れたあと、同書の音系を、『八音定訣全集』(本章【3】参照)および董同龢1959の現代晉江音系と比較し、相違点に解釈を加え、音系の再構成を試みている。そして王氏による取捨選択が加えられた、『彙音妙悟』の全音節表を示す。同書において、その音節に対応するとして収録された漢字のうち、王氏が認めなかったものについては、「漢字のない音節」として漢字を省き、当然あるべき音節を落としていると考える個所は、別に明示している。洪1993經1は、王氏の論考について、音節表が『彙音妙悟』それ自体のものではなく、氏の言う泉州音の音節表に過ぎず、また文献の内容を詳細に検討していない上、自分で方言調査を行ったこともないため、誤った判断が多いと批判している。樋口
1983は、『彙音妙悟』より現代の泉州音系への語音の推移の趨勢を概観し、泉州方言の音声的特色について述べることを目的とする。ただしそのために、論議は必ずしも厳密な音韻論的解釈にとらわれないとしている。まず『彙音妙悟』の成立を簡単に紹介したあと、現代泉州音系や『拍掌知音』を参照しながら音系の再構成に入り、董同龢1959の不足を補うものとして、樋口氏の再構成による現代泉州音の同韻字彙を示すが、1993洪經1は、音価推定の根拠が不十分であると批判している。姚榮松
1988は、泉州音系の歴史的発展という観点に着目し、最近数年来の泉州音系を記述した文献を参考にしつつ、『彙音妙悟』の50韻部を再構成した。まずその内容から、『彙音妙悟』が二百年前の泉州音系を記述したものであることは疑いないとし、二百年来の音声変化は小さい筈で、『彙音妙悟』の音系を再構成するには、現代の泉州音系に属する諸下位方言の同音字表を比較対照して、それらの祖語である原始泉州音を再構成すればよいのであるが、現代の諸下位方言に関する資料が不足しているので、とりあえず現代の諸音系と顕著な差異を示すところの、一部の問題の解決に留めたとする。韻母体系の再構成に当っては、均整ながら過度に音韻化しない様注意を払ったとしている。声調については、黄謙が八音を区別できたことを推測、ただ陰去と陽去の区別などで齟齬する点がある事も指摘する。最後の一節では、まず本書の10鼻化韻母及び2音節性鼻化韻母と、中古音系統との関係を分析して、対応する文語音を比較対照し、ついで本書の文白異読処理の方法について説明し、最後に本書の古閩南語研究における資料的価値について肯定的価値を与えた。ただ本論文では、本書の鼻化韻に対しての初歩的検討のみに留め、校勘および本字の探求については、またの機会に譲るとした。結語では、『彙音妙悟』研究において探究されるべき諸問題を指摘する。姚氏の論考に対して洪1993經1は、「歴史的発展」という観点に着目することにより、文白系統の考察には大きな貢献をしたが、構造の均整さと歴史的発展に注意を払い過ぎ、『彙音妙悟』の音価推定を、すなわち「原始泉州音」の再構成と見なしてしまったため、推定された音と現代泉州音の間には、場合によって大きな隔たりがあると批判している。洪
1993經1は、『彙音妙悟』の音系を再構成するに当り、同書が声調については陰去と陽去を完全に混同していること、文白異読については文語音の収録は比較的完全であるのに対し、白話音は自序にある通り広く収録することを計ったものの、遺漏が非常に多いこと、正音(官話音)は散発的に収録するのみで体系をなしていないことを指摘している。文語音系の再構成に当っては、『拍掌知音』の記述した音系を参照し、二書の音系はもともと別の下位方言を記述したと考えられること、『拍掌知音』の音系は『彙音妙悟』より新しいものを含んでいること、また更に考証が必要ではあるがとしながら、『彙音妙悟』は南安の音系を、『拍掌知音』の音系は同安の音系を記述した可能性があることを推測している。
【3】『八音定訣全集』
民国
13(1924)年(14)、厦門會文書局発行の石印本で、全一冊86葉、15声母、8声調、42字母(韻母)である。編者の名、序はなく、巻頭には“字母法式”として42字母が羅列されているのみである。字母用字は『彙音妙悟』と共通のものが多く、8声調があること、韻母の特徴などから泉州系韻書であると思われる。構成は『彙音妙悟』とは全く異なり、半葉が収録字の多寡により、縦線で3~5声母分に分割され、天頭に声母代表字(「十五音」)が記され、その下の版面は声調により8段に分けられて、韻図の様に整然としている。当該字のない場合は、○が書き込まれている。各小韻は1~8個の2文字の語彙が横一列に並ぶ。例えば“分”は他の韻書であれば“分 ―開”の様に小文字で注解されるのであるが、本書の該当箇所は“分開”と収録字を第一字に持つ語句が、文字の大小の区別なくそのまま書き込まれてあり、これは他の閩南語韻書には見られない特徴である。なお“鈾/古文”の様に、上に収録字が、下にはやはり同じ大きさで一段の注解が加えられている箇所も少数ある。洪
1993經1の紹介する版本は1894(光緒20)年刊で、同書が「十五音」を改編したものとする覺夢氏の序があるというが、洪氏はその版本の内容については、15声母、8声調、42韻母であること以外には触れるところがない。李如龍1981の論考があるが、筆者は未見である。
【4】『拍掌知音』
[1]
概説『拍掌知音』は、「方言」
1979年第2期に影印で全篇が紹介された、連陽の廖綸璣撰の、泉州音を記述したと思われる韻図である(15)。半葉ごとに一韻母(全36韻母)を配し、縦に十五音、横に声調を配す。巻頭の“拍掌知音切音調平仄圖凡例八則”でその利用法を示す。各図の右上の角に置かれる柳母上平字は、“音祖”と呼ばれ、“平連”・“平卵”の様に、柳母の字と“平”字との合成字で示される。その韻部に柳母の字がない時は、“首巾”・“首邦”の様に、他の声母の字と“首”字との合成字で示されるが、韻図ではやはり同じ右上角の柳母上平声の位置に置かれる。同号の方言編輯部1979の解説は、書名は『切韻指掌圖』と関係があり、“拍掌知”は《戚林八音合訂》の“打掌與君知”から来たものであろう、とすれば本書の成立は《戚林八音合訂》通行の後ということになるとしている。同号の黄典誠
1979は、所蔵者である黄氏による解説で、本書が1936年厦門大學歴史系葉國慶教授に贈られたものであること、泉州音の文語音系統の単音字表であり、白話音系統の字音は極めて少なく、韻図の白話音の字で埋めることの出来る箇所も空白になっていることを示し、各韻部の音価を推定している。『彙音妙悟』との関係について黄氏は、まず韻書が世に行われて次に韻図が現れたという歴史的事実から見れば、『拍掌知音』は『彙音妙悟』の後の成立ということになろう。ただ『拍掌知音』が主に文語音の系統を反映し、白話音は個別の方言俗字しか収めていないことから考えると、『拍掌知音』は『彙音妙悟』より原始的かつ粗雑な地方韻書(ママ)の様である。そしてもし『拍掌知音』が本当に『彙音妙悟』の後に来るものであるとするならば、『彙音妙悟』の50字母がすでにあったにもかかわらず、なぜ廖綸璣は更に数枚の図を作製し、全ての白話音を包含しなかったのであろうか。従って筆者は、この小冊子を現在見ることの出来る、最も早期の閩南泉州音の韻図であると考えるものであるとしている。
[2]
編者について古屋
1993は、各研究者(方言編輯部1979、黄典誠1979、耿振生1992(16)、洪1993經1)の記述を紹介した後、本書の成立時期を17世紀後期であるとしている。その理由は:一、廖綸璣が正黄旗教習の資格によって書いた「滿文十二字頭引」が『正字通』に見え、この「引」は康煕9(1670)年に書かれたものである。『連州志』には廖綸璣の名が見え、『正字通』出版に功のあった廖文英は連州の人、『正字通』では版本によって連州が連陽となっている。以上より、三書の廖綸璣は同一人物であると考えられ、『拍掌知音』の成立も1700年以前になる、二、『拍掌知音』の音系自体が、この書の成立時期が1800年の『彙音妙悟』より早い事を示している、と二つの理由を挙げている。
[3]
音系について洪
1993經1「第4章 泉州音的文白音系」は、『拍掌知音』の成立とその音系、『彙音妙悟』音系との関係について詳述している。洪氏は、黄典誠1979の『拍掌知音』は『彙音妙悟』より原始的かつ粗雑な地方韻書(ママ)であるとする説に、以下の様な反論を提出している:一、文語音のみ収め読書人の用に供する『拍掌知音』が、文白音を共に収め“農工商賈”の用に供する『彙音妙悟』より粗雑なものであると、どうして言えるであろうか。二、たとえ本書が粗雑であるとしても、粗雑な本であるから先に出たと言えるであろうか。本書の収める文語音の系統は、かなり完全に泉州の文語音の系統を反映しており、閩南語の文白異読を研究する上で欠くことの出来ない資料であって、本書は決して粗雑な本であるとは言えない。漳州音で(文白兼収の)『彙集雅俗通十五音』の後に、文語音のみを収めた『増補彙音』が現れた様に、文語音のみを収めた『拍掌知音』は、『彙音妙悟』の後に現れたと推論する方が合理的である。次に洪氏は各韻母の音価を推定、また両書の韻母の違いを4点に分け説明している。ここから洪氏は、二書が別の方言を記述したものであること、『拍掌知音』の音系が『彙音妙悟』より新しいものであるとの指摘を行っている。前述の通り、古屋1993は、『拍掌知音』の音系自身が、その成立時期が『彙音妙悟』より早い事を示しているとする論拠として、洪氏の音系再構成をあげているが、洪氏自身は、二書の音系の違いは、異なる方言を代表していることによるものであるとし、その論拠として一部の下位方言に見られる実例を挙げている。林慶勳
1994は、『拍掌知音』収録字と中古音との声母の対応関係を整理している。系統的な対応関係のほか、対応関係外の55字についても一字一字詳細な検討を加えている。これらの字が別の閩南方言韻書に収められているか否か、方言調査ではどうなっているのかを検討した上で、誤植或は特殊字に当るのかどうかを決定する。記述された音系から、本書が確かに泉州音を反映していることをまず確認し、『拍掌知音』に収録されている字の多数が『彙音妙悟』と共通していること、特に対応関係外の55字については、他の閩南語韻書よりも『彙音妙悟』に似ていることから考えて、本書と『彙音妙悟』は、体と用の関係を成すものではないかとの仮説を提出している。
3.漳州系韻書
最後に、「十五音」と総称される、漳州音およびそれに近い下位方言を記述した韻書について触れておきたいと思う。
【1】「十五音」
まず狭義の「十五音」である漳州系韻書について総合的に述べることにしよう。但し『渡江書十五音』や台湾・潮州の「十五音」など、もっぱら漳州以外の下位方言を記述したものについては、別に節を立てることとする。これら狭義の「十五音」は、「戚林八音」より『彙音妙悟』に引き継がれてきた、韻母→声母→声調という配列方法を、韻母→声調→声母という配列方法に改めたため、声調を分ける○●や縦横の線が往々にして欠落するという短所が排除され、『彙音妙悟』に比べて格段に見やすくなったところに、編集方法の進歩がうかがえる。
[1]
総合的研究(含音系について)「十五音」研究の嚆矢は、
1837年に出版された『A Dictionary of The Hok-kn Dia- lect』(17)巻首の、編者 W.H.Medhurst(麥都思)(18)による 「On The Orthography ofThe Hok-kn Dialect」である。字典の「PREFACE」には、同書が1818年出版の『十五音』(19)に基づいているとあり、「On The Orthography of The Hok-Kn Dialect」は、『十五音』の伝統的注音法に解説を加えながら、自己の創始になる“字頭”(声母)・“字母”(韻母)・声調のローマ字表記法と、それぞれの音価について極めて詳細な記述を行い、音節一覧表を示している。文白異読についても、Ⅰ.The regularとⅡ.The irregularに分け、Ⅰ.については各韻部の対応関係を相互に示し、Ⅱ.についてはその実例を挙げ、最後には対応する文語音のない本字典未収録の語を品詞別に列挙している。洪1993經3は、Medhurstの記述と方言調査の成果などの資料を対照させ、その精密さと正確さ、及び伝統的韻書に対する深い理解を高く評価するが、表音記号の混乱や文白異読に関する記述の問題点についても指摘し、Medhurstのローマ字表記が示す音系を再構成している。村上
1967は、「十五音」の30韻母・45韻母・50韻母の版本の中から代表的なものを選んでその概略を紹介、声母・韻母・声調の代表字を一覧表にして異同と音価を示している。また韻書編纂の目的、使用法を概説し、音節全表により、閩南語音通俗韻書が音声学的にどのような仕組みになっているかを考察、最後に「十五音」の実用面での問題点を実例により指摘している。王育徳
1968aは、Ⅱ.本論の3.「十五音」において、閩方言の共時論的研究の一次的資料の一つとして、漳州音を記述した「十五音」を用いるため、まず(広義の)「十五音」の系譜・版本・研究史に言及、五十韻母についてはその全貌と、私案を含めた諸家(Med-hurst・葉國慶1929・薛澄清1929・羅常培1930)の再構成音を一覧表にし、問題点を提起して音韻論的解釈による試案を提示する。続いて十五音の伝統的利用法と、それが“訓読”(当て字)と白話音とを混載していることから、「十五音」を音韻資料として利用する際の注意についても喚起する。次に王氏は、研究者の二つのタイプとして、閩音系の正当性と純粋性を立証すべく、音韻や語彙の考証学的研究に入って行くもの(研究者とその業績をあげる)と、無学の大衆相手に実益も兼ねて韻書編集をなすものとに分け、後者に高い評価を与えている。最後に台湾における二種の「十五音」を紹介し、音系の再構成を行っている。洪1993經1・2は、王氏の再構成が実際の方言調査の成果をあまり取り入れていないこと、音韻論的解釈を過度に施していることなどを批判している。許長安
/李煕泰1993の第2節は、漳州方言の源流から説き起こし、『彙集雅俗通十五音』の編者謝秀嵐について推測されるところを述べ、“閩南方言拼音方案”(20)により声母・五十韻母・声調の音系を示す。辛亥革命以前の塾師は、皆座右に「十五音」を備え、いつでも質問に答えられる様にしていたという挿話は興味深い。韻目や注解より、先行する福建方言韻書や等韻学書からの継承関係を概観、文白異読については、『雅俗通十五音』の収録上の問題点を例示、最後に『雅俗通十五音』が、その後の西洋人による辞書や各地の「十五音」(厦門・興化・潮汕・台湾)に与えた影響の大きさを説く。漳州では韻書が流行して注音方法が民間に普及し、その原理を用いた“蛇仔話”という隠語まで流行していた事を紹介している。洪
1993經2は、福建系韻書の概略について触れたあと、三種の漳州十五音(『彙集雅俗通十五音』・『増補彙音』・『渡江書十五音』)のそれぞれの音系と、その相互関係について詳細な考察を行っている。『彙集雅俗通十五音』音系の再構成の資料として、Medhurstの字典を挙げ、彼の記述は、前人の研究による音価推定とは距離があるにもかかわわらず、新しい方言調査などの結果や音系としての整合性から、高く評価されるべきものであるとしている。『増補彙音』は、その音系上の特色から、『彙集雅俗通十五音』の後に来るものであり、記述された方言は前者が漳浦以東、後者が漳浦以西のものであり、『渡江書十五音』の音系は長泰方言に近く、その韻部は『増補彙音』の30字祖に、“附音十三音”を合わせた様な形になっていることを指摘している。最後に、「漳州系方言異讀對照表」(「十五音」の五十韻部の19の方言調査地点における読音の記録と、Medhurstの記録を一覧表にする)を附している。
[2]
版本について漳州系「十五音」には多くの版本が存在するが、韻母の数が一番多い
50韻母のものは八巻本で(21)、『彙集雅俗通十五音』又は『増註雅俗通十五音』と名付けられ、“東苑謝秀嵐編輯”とあり、現在確認される版本は、全て赤字で文語音、黒字で白話音を示している。最古の版本は、薛1929と洪1993經2が挙げる1818年の文林堂木刻本で、大英1987にも見え(22)、Medhurstの字典の序にある版本であると考えられる(23)。このほかに、薛1929と洪1993經2では計3種の版本が、また大英1987補遺篇では更に別の1861年刊の版本が挙げられている。30韻母のものは六巻本で、『増註十五音彙集』あるいは『増補彙音』と名付けられるものが多く、50韻母より17鼻化韻母、及び漳州の一部下位方言で対立のなくなっている2韻母、更に他方言からの借用音の1韻母を除いたダイジェスト版であり、主に文語音を収録しようとしたものであると考えられる。現存最古の版本は薛1929と呉1954の紹介する、光緒庚子年(1900)漳州素位堂木刻本の『増註十五音彙集』で、嘉慶庚辰(1820)年、壺麓主人の序がある。洪1993經2は、民國17年(1928)上海大一統書局石印本を収録している。この版本に壺麓主人の序はないが、巻頭に「目録」、「字祖八音共三十字」、「切音共十五字呼起」(声母一覧)、「三十字分八音」を収める。この他に洪1993經2では3種の版本が、樋口1985では5種の版本が紹介されている。
40韻母のものは、『彙集雅俗通十五音全本』と名付けられ、薛1929に民國5(1916)年刊の上海萃英書局石印本が紹介されている。巻末には『撃木知音法』が附けられ、“民国四年江夏懋亭氏記”という署名がある。この版本は、薛1929・羅常培1930・呉守禮1954・李三榮1969・樋口1985では漳州系韻書と考えられており、その特異な音系が度々指摘されて来たが、洪1993經2は、本書が漳州音ではなく、潮州音を記述した韻書であることを、韻母の実例を挙げて指摘した。潮州音に合わない点もあることを例と共に示しているが、これは単一の方言を記述したのではなく、潮州各方言を総合したからであり、声母は潮州系の方言では18であるのに、これを15にまとめているのは、漳州系「十五音」の影響の大きさを物語るものとしている。洪氏によれば、許雲樵1961はこの版本を研究したものであり、再構成された音系はそこでは明言されていないものの、潮州音と考えるのが合理的であるという。
このほか、“
Formosan Speller”と称される「十五音」の残欠本が、台湾の原住民の保存していた文書から発見されているが、それについては以下の【3】[1]において述べる。
[3]
編者について『彙集雅俗通十五音』の編者とされる謝秀嵐について、薛澄清
1929は龍溪の人であろうとし、許長安/李煕泰1993第2節は、科挙に合格出来なかった読書階級であり、“東苑”というのは漳州城内であるなら“東坂後”であろうとしているが、いずれもその根拠は示されておらず、『重纂福建通志』(同治7(1868)年刊)、『漳州府志』(光緒3・4(1877・1878)年刊)及び『龍溪縣志』(乾隆27(1762)年刊、光緒5(1879)増補)のいずれにも、謝秀嵐に関する記載は見当らない。
【2】
『渡江書十五音』[1]
概説『渡江書十五音』は、
1950年代李煕泰氏によって厦門で発見された抄本であり、『涵芬樓燼餘書録』の「附 涵芬樓原存善本草目」には“鈔本 爲帋人方言而作”と注されている。“字祖”と呼ばれる文語音用の韻母が30、“附音”と呼ばれる白話音用の韻母が13の、計43韻母からなっている。巻首の「目録」には“以本啌呼之”として、“字祖”と“附音”の7声調による総音節表が挙げられているが、序跋・編者の名は記されていない。各韻部においては、韻母・声調・声母の組み合わせ全てについて個別の例字が収録されている(残欠部分は除く)のは、他書には見られない特徴である。李榮
1987は、この抄本が閩語韻書であり、記述された音系は厦門と漳州の間で、どちらかと言えば厦門に近いものであることを例証、成立年代については、康煕字典から引用された注解の実例を挙げて、康煕字典の後であることは確定できるとし、本書の特徴である一字多音と訓読字の多さは、すなわち閩南語の特徴であると指摘している。韻母については音価が附されているが、推定の根拠は示されていない。李煕泰
1991は、本書発見の経緯を紹介し、“涵芬樓”から民間に流入した経緯について仮説を立て、抄本の材質・サイズ・書写の方法とスタイルやページ数などを詳細に記している。43韻母に対しては、現在の海澄と厦門の読音に基づいて推定された音価が附せられている。閩南方言韻書の演変の歴史と、『渡江書十五音』そのものの内容とから、本書が『集韻』や『切韻指掌圖』などの韻書・等韻図に基づき、更に閩南地区の土音俗字を収集したものであることが分かるとする。“渡江書”という名称について李氏は、明朝と共に南渡して来た読書人が故国を思う心情から出たものであるとする。編撰年代については、本書と継承関係を持っていると考えられる『彙音妙悟』・『雅俗通』などと同じく、元・明・清を“国名”と注釈していないことから、底本は明末に出来たものであると推測する。収録語彙の特色として、閩南地区と往来のあった海外の地名・外来語・早期の土音俗字・仏典用語などの実例を挙げる。姚榮松
1994は、本書の内容を概観し、他の“十五音”と比べ収録字数が非常に多い事を指摘、注解の多くが康煕字典に拠っている事を実例を挙げて示し、本書が康煕字典の後に出たとする李榮1987の説を補強している。『烏字十五音』は本書とは声調の分類は大きく異なるものの、本書の「附音」を削除して成ったものではないか、『烏字十五音』の壷麓主人の序にある、“至於解釋,雖間用方言,而字畫必確遵字典”は本書の説明としても十分にふさわしいものであるとの仮説を立てている。また、『彙音妙悟』と『雅俗通十五音』と本書の韻部を対照させ一覧表にし、推定音価を付す。更に、『雅俗通十五音』の50韻母のうち、本書の「字祖三十字」に対応する韻母を除いた20韻母について、諸研究者による音価推定を一覧表にして示し批評を加え、最後に姚氏による仮説を示す。王順隆
1996の第1部「《渡江書》収字表」は、『渡江書十五音』を韻図の形式に直したものであり、原書の順序に従い、縦に声母と声調、横に韻母を配して、王氏による推定音価を附し、原書中の例字を注釈抜きで表示する。原書の記載もれと散佚の部分は、缺けたままにしてある。第2部「《渡江書》収音表」は、『漢語方音字彙 第二版』巻末の「中古音序索引」収録の常用2961字の順序に基づいて、例字を整理したものである。中古音の各韻部(四声は一つにまとめる)ごとに、縦には声母、各声母について四声、横には『渡江書十五音』の主要な対応先の韻母(鼻化韻母と入声はここにまとめる)のほか、訓読・俗音・其他など不規則な対応関係にある例字も表示する。末尾には筆画による索引を附す。また?印によって散佚の部分を、網目によって渡江書未収録の字を表示するほか、文白異読も表示する。附録Aの「《渡江書》韻母的研究」では、記述された音系がどの地のものであるかについて探索している。
[2]
音系について黄典誠
1991は、本書がどの地の音系を記述したものであるかを考察している。李榮の序が指摘する、宕摂開口一等糖字のN 音(以下の本編では N により鼻音化を表す)に“本腔”と注されているところに注目し、この様な白話音を持つのはもと漳州府に属する龍岩と長泰だけであり、龍岩音のiua韻が本書には見られない事から、作者が長泰籍であったとし、長泰のN に対応する漳州・厦門・泉州のは、祖語の *N が *iN>iの変化と並行して、歴史的に変化したものであるという仮説を立てている。漳州における通摂三等i:宕摂三等ia(泉州ではいずれもi)の境界線が、本書では曖昧になっていることについては、厦門音の影響を受けたものであるとする。なお、現代の長泰方言の音系を記述した研究としては、林寶卿1993がある。洪
1993經2は、他の漳州系韻書との比較のもと、本書の音系の再構成を行っている。現代漳州方言に存在している3韻部が収められていない事については、これらの韻部は、全ての小韻については文字を収録することが出来ないため、削除されたものとするのが合理的であるとする。音系については、本書の音系に見られる長泰方言の特徴、漳州音・厦門音の特徴を挙げ、記述された音系は厦門に近い長泰方言であると推測している。林寳卿
1995は、本書の作者が漳州に属する長泰籍であり、厦門語にも通じていたという仮説を立て、それを検証している。まず本書の音系の再構成を行い、『雅俗通十五音』にあって本書にない7韻部は、漳州音の特徴を表すものであることを指摘、次に長泰:厦門:漳州間で異同のある15韻母の読音を対照させ、長泰音に厦門・漳州双方の音系の特徴が見られることを歴史的背景との関連でとらえ、黄典誠1991の挙げたものと同じ例により、本書にある“本腔”が長泰音かつ厦門音であることを例証、長泰音の一大特徴である筈の中古模韻に対応するeuという読音が収録されていないのは、“山裏人、土包子”と嘲笑の対象になることを故意に避けたためであるという仮説を立てている。王順隆
1996は、中古音の分類により、本書の収録字を整理したが、附録Aはその成果に基づいて、音系の中の外来音の攪乱因素を除き、本書中の別の閩南語韻書に見られない特徴を摘出、それらについて方言調査による資料を駆使して解釈を加え、記述された方言地点について仮説を呈示している。従来の研究が、閩南方言は泉州・漳州・厦門・潮州の下位方言に分けられるという、固定観念にとらわれて来たことを指摘、前人の研究成果が示す通り、本書が記述した音系は別の下位方言である長泰方言と密接な関係にあることを示す。19項目について中古音:例字:本書:厦門音:長泰音:漳州音の対照表を示し、本書の音系と長泰音の特徴が多くの点、特に長泰音のみに見られる特徴で一致すること、また長泰音は地理的位置を反映して漳州音と厦門音の特色を兼有するが、そのうち漳州音に比較的近い事を例示している。ただし19項目中の3項目については、長泰音とは明らかに異なることも指摘、本書が一体いつどこの音系を記述したかの結論については留保し、この問題については、収録字の全面的整理が完成され、十分な方言調査報告がなされるまでは、俄かに結論を下すのは危険であると指摘している。
【3】
台湾における「十五音」[1]
『Formosan Speller』19世紀末より西洋人宣教師や日本人研究者などにより、台湾の原住民が、17世紀のオランダ統治時代に学習したローマ字を用いて彼らの言語を記録した各種文書を保存しているのが発見された。その中でも最も量の多いものは、原住民の居住地名により、「新港文書」と呼ばれているが、「臺北帝國大學文政學部紀要(昭和8年4月)」(24)は、そのうちの内容を知り得た文書を、活字に直し紹介したものである。ここには付録として、新港以外の地に住んでいた原住民による文書などと共に、ローマ字によって注音された「十五音」の手写本の内容が紹介されている。それによると、『Formosan Speller』の大きさは14.2×14.7㎝、全24葉で第1葉と第14葉の最初の半分(即ち1・27頁)は失われている。そのうちの第13頁までが「十五音」で、あとは「百家姓」となっている。半葉に5行ずつ、以下の様に手写されている(原文ではローマ字は縦方向に横書きされている):
(13頁) (10頁) (6頁) (←2頁)
喜
~ 柳 皆 ~ 柳 斈 ~ 邉 柳 江唻 六 弄
雷 祿 朗
里
力 乳haij
~ laij ~ lak ~ pang langhoij
~ loij ~ lok ~ pong longloij
~ liij ~ lik ~ ping ling
「江」は
-ng、「斈」は-k、「皆」は-ijという様に、同じ韻尾を持った韻母が韻摂の様にひとまとめにされて、主要母音-a-・-o-・-i-の順に並べられ(閩南語においてこれらの韻尾と結合する主要母音はこの三つが全てである)、この韻母と「十五音」(声母)の組み合わせが、ローマ字で書かれているが、例字もあげられているのは、各韻母とも“柳”声母の音節のみである。「十五音」は、例えば「江」“摂”では(p.2)柳邉求去/(p.3)地被他曾入/(p.4)時英文語出/(p.5)喜、の順に配置(他の“摂”も順序と代表字は同じ)されており、これらは、“被”を除いて『彙集雅俗通十五音』などで使われている文字と同じである。ここで行われている韻摂の様な韻母の分類方法、及び“弄、朗、乳、・・・・”など例字としてあげられている“來”声母の韻母代表字は、他の閩方言韻書には見られない独特なものである。
[2]
日本統治下における台湾の十五音日本統治下の台湾においては、台湾総督府により、「十五音」の内容を台湾に行われる閩南語の現実を考慮して韻図化し、カタカナにより注音された「台湾十五音」と称される、一種の台湾語音節総表が編集された。構成は一韻母(韻図)ごとに、横に十五の声母、縦に八声(第二・六声は同一字を重掲)を配する。村上
1966は、「台湾十五音」成立の背景となった、日本人の台湾における閩南語研究を年代・分野別にその概略を紹介したものである。樋口1984は、まず「戚林八音」に始まる(広義の)「十五音」の主要な版本の内容を概観し、次に「台湾十五音」について、その出版の経緯、表音法とその変遷、記述された音系の特色などを簡略に述べ、「台湾十五音」を、福建から分離した台湾語が形成される出発点を記録した貴重な資料であるとしている。洪1993經5は、日本統治下の台湾における辞書編纂とその背景を詳述しているが、6.1 韻書類において「台湾十五音」の3種の版本を挙げ、標音方式の異同を辞書類の標音方式と関連づけて紹介している。以上の諸論考および該書の緒言による、3種の版本の概要は以下の通りである:
1.
『訂正臺灣十五音及字母表(25) 附八聲符號』 明治29(1896)年11月8日刊 臺灣総督府民政局學務部編字母(韻目)は「十五音」が「求
2.
『臺灣十五音及字母詳解』 明治29(1896)年11月14日刊 臺灣総督府民政局學務部編韻母の数、代表字及び配列方法などは前書と同じであるが、“入聲”は“常音”の図に取り入れられ、計
3.
『訂正臺灣十五音及字母詳解』 明治34(1901)年3月31日刊 臺灣総督府民政局學務部編カタカナによる標音方式を一部改める。各字に対する簡単な注釈付き。厦門音と標準とし、空韻がある場合は漳州・泉州音で補い、該当箇所にはその旨を注記。韻母代表字と配列が前書と少々異なるほか、泉州音専用の3字母と字のない特殊な1字母を加え計
[3]
第二次世界大戦後における台湾の十五音本節においては、第二次世界大戦後台湾で新たに編集された以下の4種の「十五音」について、内容とそれらに関する研究を概観する。
Ⅰ
.『彙音寳鑑』沈富進編。民国
43(1954)年(『増補彙音寳鑑』、民国49(1960)年)、嘉義文藝學社刊。15字頭(声母)、45韻母、7声調で、体例は『彙集雅俗通十五音』を模倣している。本書の特色としては、白抜字で白話音、囗内で「泉州腔口」を示していること、本文中に教会ローマ字(声母は十五音の分類を守る)と注音字母(日常用字のみ)による注音を施したこと、韻目は「求」と「英」声母のものを併用したこと、「因字求音」の索引(異読も挙げる)を付し、そこには黄謙の“三推新數法”の流れを引く三字による切語(字母・8音・字頭の順)を記していることなどである。編者沈富進については、陳永寶
1987、張典婉1994、野間1995による言及がある。本書の内容の概略と音系については、村上1967が他の閩南語韻書の韻母・声母・声調代表字の対応関係との音価を示し、本書に基づいて「十五音」全音節表を作製、収録字数を挙げ、本書の使用法とその限界についても言及しており、陳永寶1987は、韻母・声母・声調について詳細な音声学的分析を加え、洪1993經10は本書の音系が漳州音系に近いが『彙集雅俗通十五音』などの音系とは相当の距離があること、沈氏の言う「泉州腔口」が実際は厦門音であり、沈氏にとって自分の漳州腔と異なるものは即ち泉州音であったこと、記述された音系が編者の居住地嘉義県梅山方言の特徴を有するものであることを指摘、野間1995は、本書と『増註硃字十五音』:『厦門音新字典』:『渡江書十五音』の音系間の異同点を指摘、更に収録字に関する詳細な比較対照を行った。
Ⅱ
.『烏字十五音』林登魁集。民国
44(1955)年、台中瑞成書局刊行。本書も15声母、45韻母、7声調で、体例は完全に『彙集雅俗通十五音』を模倣している。「目録」に“元前(ママ)黒字三十字不足、又紅字五十字過多、今多改良四十五字、足用矣”とある通り、台湾優勢音の実情に合わせ、『彙集雅俗通十五音』の韻部を合併している。本書の特色としては、書名が示す通り文語音を朱字、白話音を黒字で印刷する伝統の体裁を廃して黒一字で印刷したため、文語音と白話音が識別不能となっていること、「目録」で声調及び“新音樣式”による声母の記号化を紹介、“字母共四十五字、化作四千七百二十五字、記明于左”として字母とこの記号による全音節表を示していること、「目録」に“前有空音、今改無空音”とある通り、声母・韻母・声調の組み合わせ全てに漢字を配した(但し韻目の字に本書の声調・声母記号を付したもので、注釈は“新音”とする)ことなどである。王育徳1967aおよび村上1967で内容の概略が紹介されている。
Ⅲ
.『臺灣十五音辞典』黄有實編。民国
61(1972)年自費出版。洪1993經10所収。15声母、7声調であるが、-iNと-iuNの区別を残したため、46韻母となっている。本書の特色としては、韻母の配列方式を教会ローマ字によるABC順とした(韻目は伝統的な「求(k)」声母の字、声母は「十五音」を用いその順序による)こと、文白異読を区別せず、別の下位方言の音であることも表示していないことなどである。「小引」の七、「十五音字母集表」では、本書の編集にあたって参考とされた4文献について、その版本及び本書との関係が述べられている。そこでは『手抄十五音』(26)を“此書的骨肉”、『硃字十五音』(50韻母の『増註雅俗通十五音』)及び『黒字十五音』(30韻母の『増註十五音彙集』)を“此書的参考”、また『彙音寳鑑』を“修補此書的借鏡”として、これらの版本と本編の字母対照一覧表を示している。編者の伝記および音系の特色については、洪
1993經10がその概略を述べている。
Ⅳ
.『國臺音彙音寶典』陳成福編、
1986年台南西北出版社刊。音系および体例は『彙音寳鑑』に準じているが、嘉義梅山音を台湾の優勢音に改めている箇所もある。文語音を“漢音”、白話音を“閩音”音と称する。漢字に対する注釈は“國語”による。
【4】
潮州の「十五音」本章の【1】で触れた通り、
40韻母の『彙集雅俗通十五音全本』(民國5(1916)年刊、上海萃英書局石印本、附「撃木知音法」)は記述された音系から、洪1993經2によって漳州系ではなく、潮州系の「十五音」であることが指摘された。このほか以下の通りの、潮州音を記述した「十五音」が刊行されている。
1.
蒋儒林 『潮語十五音』(27) 1911年 汕頭文明商務書局出版15
声母、40韻母、但し巻末に3韻部はそれぞれ別の韻部と同じで収録せず、と注してあり、実際には37韻母。また同書の凡例には、『潮聲十五音』を校勘したとあるという。2.
謝益顯 『増三潮聲十五音』 1965年 著者(香港九龍)出版他の「十五音」では相補分布をなすため一声母とされる、鼻音とそれに対応する非鼻音声母を潮州方言の実情に合わせ、それぞれ別の声母として立てる(ゆえに“増三”と称する)。
3.
李新魁 『新編潮州方言十八音』汕頭市の音系を基準に記述した。46韻母。
【5】
『興化十五音』以上に述べた各地の十五音のほかに、許長安
/李煕泰1993第2節には『興化十五音』という書があると紹介されているが、筆者未見であり、管見の限りではこの書に関する論考も発表されていない。
注
(
1) 光緒癸亥(1903)年福州集新堂の刊本(洪1993經3収録)による。自序には日付は記されていないが、本章【2】[3] に紹介する通り、この自序の前には、“嘉慶5(1800)年正月上元日の編者黄謙の叔父黄大振による序が附されている。(
2) p.71。富知園の伝記をあげ、生没年を1665年頃より1735年頃としているが、根拠は示されていない。引用された伝記は、『重纂福建通志』よりは詳しいが、『泉州府志』よりは簡略である。(
3) 『重纂福建通志』(同治7(1868)年刊)の「卷七十二 經籍志 晉江縣」には、“允諧康煕間貢生、傳見文苑傳”とある。(
4) 『彙音妙悟』自序にある、“少熟等韻之書”については言及するところがない。(
5) 上記注3の『重纂福建通志』に康煕間の貢生とあるところから、丙戌・丁亥は康煕45・46(1706・1707)年であると考えられる。上記注2の李氏による生没年は、これより推定されたものであろう。(
6) 以下は『彙音妙悟』自序にある“壯遊燕遼之地,諸任既該”に言及しているものであろう。(
7) 雍正10(1732)年か。“府志”はこの伝記が載せられている『泉州府志』であろう。(
8) 「戚林八音」においては、各韻部では声母(十五音)が変わるごとに改行され、次に声調(八音)が上(陰)平・上・去・入;下(陽)平・上・去・入の順に配列される。声調が変わっても改行されるとは限らないが、各声調の所属字の始めの部分には○(所属字がない場合には●)がつけられる。これに対し『彙音妙悟』においては、声母が変わっても改行されるとは限らず、声母代表字も行が変わる場合は天頭におかれ、そうでない場合は版面におかれるいう様に不統一であり、声調の配列順は「戚林八音」と同じではあるが、版面を有効に使うためか、小韻ごとに上下の段及び左右列を全く無秩序に線で分割しているので、それがどの声調に属するものであるのかを見極めるのは、一見しただけでは非常に困難である。(
9) この論考は“三推新數法”を紹介し、石印本では誤りの多い各符号について、校訂を行い、また“三推新數法”に続く注音法である、李鼎臣の“新字”、盧戇章の“切音新字”について、その内容を成立の背景と共に紹介している。(10)
黄典誠1980p.105によれば、光緒19(1893)年の木刻本ではこの条は“非係大用”で終わり、“也”の文字がついているという。洪1993經1では、この後に本来は“我孫”と続くべきで、翻刻者を呪う字句であるという説のあることも紹介されているが、洪氏自身は、“非係大用”という記述からその可能性はないであろうとしている。(11)
洪經1p.75は、一般には黄謙の叔父の名を大振、字を瞻二としているが、黄謙が自序において“黄謙思遜”と署名していることから、名が瞻二、字が大振である可能性もあるとしている。(12)
黄典誠氏は、“1979年因事過泉,晤陳泗東於小開元,承告黄謙系南安官橋文斗郷人。”と述べるのみである。(13)
嘉慶17(1812)年刊。乾隆末期~嘉慶初期に任官した人物を記載。興安府學については教授の名前のみを収め、その下にある訓導の名は記載されていない。(14)
発行年は王育德1970による。しかし現在東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所の“王文庫”に所蔵されている同書には、刊行年を示す記載は見当らない。(15)
封面には連陽廖綸璣撰/拍掌知音/梅軒書屋藏とあるが、「凡例」には“拍掌知音切音調平仄圖凡例八則”、版心には“拍掌知音切音調平仄圖”とあって、方言編集部1979は本書の全名は『拍掌知音切音調平仄圖』とあるべきで、『拍掌知音』は略称に過ぎないとしている。(16)
「第五章 明清等韻音系擧要」の「第二節 南方方言區等韻音系」において、耿氏は本書の音系を紹介(音価は黄典誠1979による)し、“成書時間約在18世紀後期,反映泉州一帶的讀書音。”としているが、その根拠については言及がない。(17)
本書の全名は、『A Dictionary of The Hok-kn Dialect of The Chinese Language,Accrding to The Reading and Colloquial Idioms: Containing About 12,000 Characters,
The Sounds and Tones of Which are Accurately Marked ;
―― And Various Examplesof Their Use, Taken Generally from Apporoved Chinese Authors.
』である。(18)
W.H.Medhuestの伝記と業績に関する研究成果としては、村上嘉英“W.H.Medhurst in the History of Chinese Linguistics”(Tenri Journal of Religion 7 : p.59~63 Dec.1965)、および洪1993經3がある。(19)
後述の漳州系韻書、謝秀嵐編輯『彙集雅俗通十五音』(文林堂木刻本)であると考えられる。大英1987によると、大英図書館にはこの1818年の版本が所蔵されている。(20)
1981年出版の『普通話閩南方言詞典』で用いられた、“漢語惡音方案”に準拠するローマ字注音法である。(21)
李・許1993には、50韻母のものとして『増註雅俗通十五音』(1869(同治8)年)が紹介されているが、十巻本となっている。この版本は薛1929・洪1993經2でも紹介されているが、巻数については言及がない。(22)
書名は『雅俗通十五音』となっている。(23) PREFACE p.
ⅶに“The present work is founded on a native Dictionary of theHok-kn dialect, published in the year 1818, called the 十五音 ・・・・”とある。(24)
村上直次郎による「Preface」には新港文書を始めとした、各種文書の発見の由来と、その内容が示されているが、この『Formosan Speller』については、その体裁を記すのみで、詳細は述べられていない。同序によれば当時までに発見されていた141文書のうち、成立年代が分かる最も古いものは康煕22(1683)年、最も新しいものは嘉慶18(1813)年であり、嘉慶5年の序がある『彙音妙悟』や、1818年に成立したとされる『彙集雅俗通十五音』に先立つ版本の残片である可能性が高い。(25)
この前に、『臺灣十五音及字母表』という書があった筈であるが、洪1993經5が指摘する通り、諸文献においてこの書の存在は確認されておらず、すでに失われたものと思われる。(26)
現任地の張禎祥氏蔵とあり、呉守禮1954にも同名の書が紹介されているが、いずれの論考にもこの版本の詳細については記されていない。(27)
この版本は筆者未見のため、記述は全て洪1993經2による。
「引用文献一覧」(著者名の日本語読みのアイウエオ順)
・王育德
1968a:閩音系研究 東京大学博士論文 1968.
・王育德
1968b:十五音について 「國際東方學者會議紀要」第13冊 p.57~69 1968.(王育徳1968aのⅡ.本論の4.「十五音」に再掲
・王育德
1970:泉州方言の音韻体系 「明治大学人文科学研究所紀要」第8・9合併号 p.1~31 1970.
・王爾康
1983:早期漢字改革運動與閩南方言 「中国語文」1983-4 p.280~297 1983.7.
・王順隆
1996:閩南語韻書《渡江書》字音譜 学生書局 1996.1. (付録A《渡江書》韻母的研究 もと1995.)
・許雲樵
1961:十五音研究 星州世界書局 1961.
・許長安
/李煕泰1993(編著):厦門語文 鷺江出版社 1993.12. (第2節 漳州《雅俗通十五音》)
・呉守禮
1954:臺灣省通志稿卷二人民志 語言篇 1954.12.
・洪惟仁
1990:漳州三種十五音之源流及其音系 「臺灣風物」40卷第3期 p.55~78 1990.9.(洪1993經2の解題に再掲)
・洪
1993經:洪惟仁 閩南語經典辭書彙編(全10冊) 武陵出版有限公司 1993.2.(以下の分冊ごとに洪
1993經1~10と略称、分冊の内容については本篇1.参照)1.泉州方言韻書三種
2.漳州方言韻書三種 3.福建方言字典4.厦英大辭典
5/6.日臺大辭典 7/8.臺日大辭典9.台湾語常用語彙
10.臺灣十五音辞典
・耿振生
1992:明清等韻學通論 語文出版社 1992.9.
・黄典誠
1979:《拍掌知音》説明 「方言」1979-2 p.155~156 1979.5.
・黄典誠
1980:泉州《彙音妙悟》述評 「泉州文史」2・3 p.97~106 1980.6.(許長安/李煕泰1993. p.7~21に再掲)
・黄典誠
1991:《渡江書十五音》的本腔是什麼? 「厦門民俗方言」 第5期 p.11~12 1991
・周長楫
1980:略談《彙音妙悟》 「泉州文史」2・3 p.107~117 1980.6.
・薛澄清
1929:十五音與漳泉讀書音「中山大學語言歴史研究所週刊」 第7集第85期 p.3428~3437 1929.
・大英
1987:大英博物館所蔵漢籍目録 科学書院翻刻 1987.
・大英
1987補遺篇:大英博物館所蔵漢籍目録 補遺篇 科学書院翻刻 1987.
・張振興
1983:臺灣閩南方言記略 福建人民出版社 1983.
・張典婉
1994:一本老台語字典的故事 「自由時報」自由副刊 1994.8.22.
・陳永寶
1987:閩南語與客家語之會通研究 瑞成書局 1987.4.
・董同龢
1959:四個閩南方言 「中央研究院歴史語言研究所集刊」第30本 p.729~1042 1959.
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(晃)1995:『彙音寳鑑』與『渡江書十五音』的音系 『第1屆臺灣語言研討會論文選集』p.419~p.450 1995.4.
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(靖)1983:閩南語泉州方言音系についての覚え書 「筑波大学 言語文化論集」第15号 p.353~364 1983.9.
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(昭弘)1993:關於《拍掌知音》的成書時間問題「開篇」11 p.110~111 1993./「中国語文」1994-6 p.452~453
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1979:廖綸璣《拍掌知音》影印本 「方言」1979-2 p.143~154 1979.5.
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1966:日本人の台湾における閩南語研究 「日本文化」45 p.62~108 1966.10.
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1967:通俗韻書に見られる中国人の閩南語研究 「日本文化」46 p.18~36 1967.10.
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・姚榮松
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1929:閩南方言與十五音 「中山大學語言歴史研究所週刊」第7集第85期 p.3422~3427 1929.
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1930:中央研究院歴史語言研究所單刊甲種之四 『厦門音系』 1930.
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・李如龍
1981:八音定訣的初歩研究 「福建師大學報」1981-4 p.110~121 1981.
・李如龍
/陳章太1982:碗窰閩南方言二百多年間的變化 「中国語文」1982-5 p.345~364 1982.9.
・林慶勳
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・林寳卿
1995:對《渡江書》是何地音的探討 第4屆國際閩方言研討會宣讀 1995.