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『メイルシュトーノ』 (2012.5)掲載文に加筆

東北人井上万寿蔵

後藤 斉


昨年10月の第52回東北エスペラント大会(福島市)で「東北とエスペラント言語文化」と題して講演する機会があった。その中で井上万寿蔵(ますぞう)にも触れたが、時間の関係で十分に扱うことができなかった。その後の調査の結果も含めて、補足したい。

まずその経歴を手短にまとめれば、井上万寿蔵(1900.1.2~1977.4.8)は東京府立一中(1917卒)、一高(1920)、東大(1923)を経て、鉄道省に入った。その後、関連企業、団体などをへて、1958年から交通博物館長を務める。修学旅行や自然保護の分野にも関わり、観光や交通関係の著作は子供向けのものも含めて数多い。

井上の出身地は山形県東京である。中学が東京府立一中であることから、少年時代に東京に移ったようであり、彼の経歴の多くも東京で繰り広げられることになる。しかし、かれは晩年の著書の著者紹介でも新庄藩士の家系であることを明記しており、山形県人としての意識は持ち続けていたと考えられる。なお、父井上鋼太郎には最上徳内伝の著述があるとのことである。

中学時代にエスペラントに触れたようだが、本格的に学習するのは、一高に入ってからで、同期の長谷川理衛と二人でしばしば小坂狷二宅を訪問して指導を受けたりもした。1920年大学に入ってからは、JEI宣伝部委員となり熱心にエスペラントの宣伝活動に携わる。「人類の国際心の目醒めを語る国際語エスペラントに対する建部博士の誤解を駁す」(『中央公論』1922.7)、「エスペラントを中等学校に課するの議」(『中央公論』1922.8)、「エスペラントと国際連盟総会」(『国際知識』1923.2)など、一般向けの雑誌にも積極的に寄稿している。

また、1921年東北宣伝隊に加わり(ほかに東大生の川原次吉郎、竹内徳治、堀真道、長谷川理衛、東京商大生の進藤静太郎)、武藤於菟(むとうおと. 1876~1942)が受け入れた仙台では、7月21日に二高を会場として「普及大講演会」を行った。翌1922年にも、5月28日、フィンランド公使ラムステット(1873~1959)、小坂狷二(おさかけんじ. 1888~1969. のち日本エスペラント学会会長)、何盛三(がもりぞう. 1884~1948))らとともに講師になって、東北大エスペラント会の主催により二高講堂で「大講演会」を行っている。

1923年、大学を卒業し鉄道省に入省しての最初の赴任先は仙台駅助役であった。ここで彼は仙台のエスペラント運動にとって大きな足跡を残すことになる。武藤や萱場真(1888~1931)らを1924年の第12回日本エスペラント大会を仙台に招致するよう説き伏せたのである。もちろん自分も先頭に立って準備活動をするつもりであったのだろう。しかし、井上は翌年春に秋田に転勤になってしまい、大会に参加することはできなかった。この大会については、「エスペラントで天国に送られた魂 ―萱場真―」(『メイルシュトーノ』第209号, 2008.9)で触れておいた。

井上は数年後には本省に戻る。JEIにおいても1925年第6期代表委員,1926年評議員長を歴任してエスペラント運動の表舞台に復帰した。のち1933~45年理事も務める。井上は、鉄道の職務をEと結びつけて、100ページを越える大冊のエスペラント文案内冊子“Gvidlibreto por Japanlando”を鉄道省から刊行(1927)させる。この前後、国際観光は国の事業として重要さを認識されつつあり、1930年に鉄道省の外局として国際観光局が設置される。

エスペラントと国際観光との親和性が高いのは明らかである。井上が観光分野に進むことになったのが、本人の希望が入れられたのか、鉄道省内の人事の上での偶然なのかは、わからない。結果として、適材適所の人事になったと言えよう。

1931年12月~33年9月には観光事業研究のため欧米に派遣された。専門の研究にも励んだであろうが、各地でエスペランティストと交流して、RO誌ほかに報告している。33年には、ナチス政権下で辛うじて開かれた第25回世界エスペラント大会(ケルン)にも参加した。

帰国後は国際観光局に勤務したが、個人としても日本初の観光学の概説書『観光読本』(1940)を著し、観光を産業や行政の中に位置づけるのに功績があった。「人が日常生活圏を離れ、再び戻る予定で、レクリエーションを求めて移動すること」という、井上による観光の定義は関係分野では今でも引用されることがある。

井上はRO誌1942年3月号に「大東亜建設とエスペラント」を寄稿し、「正しい意味での日本語の海外進出とゆうことは、他の民族の言語を奪つてそれに日本語を置きかえるとゆうようなことではないはず」と、海外諸民族への日本語の押し付けを批判した。時代を考えれば、勇気ある発言と言えるのではなかろうか。

戦後の混乱期に鉄道教科書(株)から『新撰エス和辞典』を重版(1946)させたのは、公私混同なのだろうか。1948年には日本国憲法のエスペラント訳‘La konstitucio de la Regno Japanio’(長谷川理衛と共訳, RO 1946.12~1947.4)により第4回小坂賞を受賞した。1947~70年には再びJEIの理事に復帰し、常務理事も務めている。

井上は舒菴の号で漢詩を作り、雑誌を主宰して戦後の漢詩界に貢献したそうである。「遊欧雑詠」と題する連作があり、北極回り航路の情景を詠んだ「鵬翼飛過白夜天 / 俯看氷海似銀氈 / 凌雲三万九千尺 / 擬把北辰望眼前」(新字体に直した)などが含まれている。これが、エスペラントでの旅行だとすれば面白いのだが、確認できない。

井上にはこのように詩を嗜む側面もあったようだが、エスペラントではむしろ実務的な人物で、文芸的な文章はあまり書いていないという印象があった。しかし、RO誌1927年1~3月号に‘La verda nebulo: Japana legendo pri norda banloko’(「緑の靄―北国温泉地の伝説」と付記)という文章が掲載されていることを最近になって知った。ある温泉の発見にまつわる伝説をエスペラント訳したものらしい。3回の連載で、計6ページほどの分量である。冒頭を引用すれば:

Vojeto kuras laŭlonge de alta krutaĵo, kiun kovras maljunaj arboj. Jen paŝas junulo sur la vojeto, portante sur la dorso verŝajne pezan korbon plenigitan per hejtlignaĵoj --hakitaj trunketoj, kadukintaj branĉetoj--, inter kiuj sin malkaŝas ankaŭ diversaj fungoj kaj fruktoj.

この北国温泉地とはどこだろうか。末尾で明かされる。

La loko estas nun konata kiel banloko-Ubaju (laŭlitere varmakvo de maljunulo). Oni povas atingi ĝin post trihora suprenmarŝo de la stacio Tooge, Oou-Linio.

山形県米沢市の姥湯温泉である。秘湯中の秘湯であり、国際観光に向いているとは言えないが、最寄り(徒歩3時間!)の奥羽本線峠駅の名前まで挙げているところは山形県人鉄道マンの井上らしい。

参考文献


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