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『宮城教育大学情報処理センター年報』第8号(2001), pp.41-45. 掲載

インターネットと言語
―英語公用語化論との関連において―

後藤 斉 (東北大学大学院文学研究科言語学講座)


1. はじめに

2000年に大きな議論を呼んだ英語公用語化論は、現在多くの場面において 英語が事実上の地球語として機能していることにその根拠があったが、これは インターネットに代表される情報通信技術の発達とも関連していた。しかしながら、 インターネットと言語の関係はそれほど単純ではない。本稿では、むしろ インターネットの別の面に注目することによって、英語公用語化論がインターネットと 言語の関連について一面からしか見ていない議論であったことを指摘したい。

2. 英語公用語化論とインターネット

2000年1月、故小渕首相(当時)の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会 (河合隼雄座長)は、その最終報告書 「日本のフロンティアは日本の中にある」 (http://www.kantei.go.jp/jp/21century/houkokusyo/index2.html)において 英語の第二公用語化へ向けた検討を提唱して、その賛否をめぐって国内に激しい 議論を巻き起こした。この問題は、小渕首相がその後死去したこともあって、 公式に推進する方向への新たな動きは目立たないが、大きな論点であることには 変わりない。この問題は本質的に国の在り方に関するものであるが、 インターネットも大きな論点として関わっていた。

英語公用語化論は賛否双方の激しい議論の対象になったが、「英語の公用語化」と いう言葉に表面的に反応したものも少なくはないように見受けられる。真剣な 検討のためには、上記の報告書の内容を把握することは不可欠である。 本稿ではこの報告書を細かく検討することはしないが、あらかじめいくつかの点を 確認しておくのがよかろう。まず、報告書は直ちに英語を公用語化するよう 提案しているのではなく、「長期的には英語を第二公用語とすることも視野に 入ってくる」、「第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、 日常的に併用すべきである」という、いささか曖昧な提案にとどまっているのであり、 多くの批判はそれを無視したものであった。

しかし、本稿での論旨から注意しておきたいのは、この報告書が、日本の 「国際対話能力 (グローバル・リテラシー)」を確立する上で、情報技術と実用英語を 使いこなすことが今後不可欠であるとし、英語を情報通信技術と並んで「世界に アクセスする最も基本的な能力」 (第1章 IV節)として提示していることである。 「国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での 作成を義務付けることを考えるべきだ」(同)といった点に端的に見られるように、 英語公用語化論は情報技術、ホームページ、インターネット等と密接に 関連させながら論じられたのである。

英語公用語化論のみが話題になった感もあるが、これは報告書のごく一部を 占めるに過ぎず、英語第二公用語化が必要である理由やその実施方法について 詳細な説明がなされているわけではない。実際、「英語が事実上世界の共通言語である 以上、日本国内でもそれに慣れる他はない」 (第6章 III節)という文は、 これだけを取り出せばいかにも粗雑な議論と言わざるを得ず、一部から激しい 反発を招いたのも当然と言えよう。

英語公用語化論の具体的な論拠や想定される実施方法が詳しく論じられているのは、 懇談会のメンバーであった船橋洋一の個人による著作(船橋 2000a, b, c)において である。しかし、意外なことに、船橋の論点は報告書の論旨とは無視できない ずれを見せている。船橋(2000a)は、公用語法を制定し、日本語を公用語、 英語を第二公用語と定めることを提案しているが、そこには日本の言語政策が 多言語主義の思想を基本とすることを明記するのだと言う。また、多言語主義の 原則からして、英語以外の言語の教育も拡充することになる。しかし、 報告書は確かに「日本社会の国際化・多様化」については触れてはいたものの、 多言語主義を原則とするとは一言も述べられていない。この力点の不一致は 看過できない。英語公用語化と多言語主義原則が近い将来の日本において 両立できるかは自明ではなく、その実現の可能性には大きな疑問の余地がある。 船橋(2000a,b,c)はその疑問に答えてはいない。

3. 英語の地球語化とインターネット上の英語支配

政治、経済、科学、ジャーナリズム、スポーツなどの広範な分野で、国際的な コミュニケーションが英語のみを通じて行われるような場面が圧倒的に増えている ことは、ここで指摘するまでもない。これを英語の地球語化と呼んでよかろう。 これについては多くの論考があるが、クリスタル(1999)とグラッドル(1999)は この問題を概観し現状と将来を詳細に分析したものとして、もともとほぼ 同時期に刊行されたこともあって、話題になった。

しかし、将来の予想に関しては、この両者は奇妙な対照を見せている。両者とも インターネットを含めた種々の要因を考慮しながらも、前者は英語の地位を ほぼ安泰なものと考えているのに対して、後者は過渡的な現象となる危惧を強調する。 確かに、言語人口だけをみればアメリカ国内でさえスペイン語話者が英語話者を 上回ることはありうる。世界的には中国語話者の方が多い。グラッドルが 見せる不安は一理ある。

しかし、英語の地球語化とは単に人口の問題ではない。また、書かれる文書や 交わされる会話の量の問題だけでもない。条約や法律、各種の規約、契約書など 社会の仕組みを規定する文書が書かれていることに象徴的に見られる、社会で 果たす機能と、それがもたらす「威信」に関わることである。このように考えれば、 将来のことは所詮不確実にしか予測できないものの、クリスタルのように 英語の地球語化は将来にわたっても容易には揺るがないと見ておくのが 至当であろう。

インターネットはアメリカ合衆国で生まれ、主にアメリカで育ったものであるから、 当初は、明示的にせよ暗示的にせよ、英語のみの使用が想定されていた。 この歴史的事情を反映して、現在でも英語への集中が現実世界以上に一層顕著に 現れることがある。しかし、インターネット上で展開される言語活動の内容に みられる英語の情報量の多さは、一つにはアメリカおよびその他の英語圏において 政府機関や企業・団体が積極的に情報公開し、個人が積極的に意見を述べていることの 結果である。インターネット上の英語情報の多さは、英語使用者自身の インターネット上で行った努力の正当な成果という面があることは認めなければ ならない。

インターネット上の英語への一極集中は、他言語での言語活動がこれまで以上に 活発に展開されることによって、理論的には現実世界と同レベルまで低下する はずである。実際にインターネットの全世界への拡大にともなって英語圏の比重は 相対的には低下しつつある (NUA Internet Surveys (http://www.nua.ie/surveys/)を参照)。

しかし、英語の使用を当然のこととし、それ以外の言語が使えない状態に 追い込まれるとすれば、それを「英語帝国主義」と見なすことができよう。 現実世界での事例については、クリスタル(1999)とグラッドル(1999)に譲るが、 インターネット上でもそのような面も時に見受けられる。例えば、日本人の ウェブページには "Sorry, Japanese Only" と書かれていることがあるが、自分の 母語を使用するのに謝らなければならないと考えているのであれば、英語帝国主義に 毒された、不必要に卑屈な態度と言える。

さらに、インターネットの普及はアメリカを始めとする英語圏諸国による 世界戦略の一環という面があることも確かである。それが極端に現れているのは、 アメリカ、イギリス等による国際通信盗聴システム「エシュロン」であり、 この存在が明るみに出たことは EU諸国から大きな反発を招いた(指宿 1999)。

4. インターネットと少数言語

その一方でインターネットには、個別のコンピュータの機種の違いや種々の 機関・地域内ネットワークの性格の違いを前提とした上で、それらを対等の関係で 接続するという多元的原理も働いている。すなわち、基本的な条件が整ってさえ いれば、誰でも他の任意の人との間で、対等の立場で伝達を行い、また受けることが できる。このことは誰にでも平等に当てはまるが、既存の技術の恩恵を 受けにくかった個人や小規模言語共同体の場合に相対的に大きな恩恵を 享受することになる。

例えば、従来は北海道在住でない人がアイヌ語に関連した活動について知る 機会は極めて限られていた。現在では、インターネットを利用して、 アイヌ文化振興・研究推進機構 (http://www.frpac.or.jp/)を始めとして、個人や団体が作っている ウェブサイトがアイヌ語に関する活動のさまを発信していることを 容易に知ることができる。これは出版や放送では十分に果たせなかった機能である。 そのほかの事例については、後藤(1998, 2000)を参照していただきたい。

英語の使用が世界的に拡がる一方において、世界の言語は多様性を失いつつある。 アラスカ大学クラウス博士の推定によれば、現在世界にある約6000の言語の内、 (1)子供が母語として習得しなくなった言語が 20〜50%、(2)現状のままでは 21世紀末までに(1)の仲間入りをする可能性のある言語が 40〜75%、 (3)将来にわたって安泰な言語が 5〜10%となっている(宮岡 1996)。つまり、 世界の言語の半数近くが 21世紀中に消失するであろうし、悲観的に見ると 95%の 言語が消失してしまう可能性さえあるのである。

地球上から生物の種(しゅ)が急速に失われつつあることはマスコミで報道される ことも多く、これに関連して環境保護運動には広い関心が集まっているが、 言語も同様の状況にある。言語間に不平等があり、強国の言語が弱小国の言語を 併呑する状況は太古から世界各地で見られた現象であるが、世界の半数もの 言語にとって事態がもはや回復不可能であることは人類史上の大事件だと言える。 この状況を憂える人も多い。諸民族が歴史の中で築き上げてきた文化とそれを 支える言語とは、人間がもつ豊かな可能性の現れであり、それが消えることは、 人間の可能性を狭めることにほかならない。人間の本質を解明するための 手掛かりをなくしてしまうことでもある。

多少とも幸いなことに、言語の多様性を守ろうとする動きは世界の各地に見られ、 インターネットを通じてその情報を得ることができる。危機言語については、 東京大学大学院人文社会系研究科附属文化交流研究施設におかれた 危機言語クリアリングハウスが関連情報の世界的な集積地となっており、 WWW上に も「『危機言語』ホームページ」 (http://www.tooyoo.l.u-tokyo.ac.jp/ichel-j.html) を設けている。 現在シンポジウムの記録や地域別に危機言語の状況をまとめた「レッドブック」が 参照でき、ロシアの少数言語のデータベースも置かれている。また、ユネスコは 言語や文化の多様性に関する情報を蓄積するためのプログラム MOST Clearing House on Linguistic Rights (http://www.unesco.org/most/ln1.htm) や教育における言語の多様性と 多言語使用を推進するプロジェクト LINGUAPAX Project (http://www.linguapax.org/)を行っている。このほか、 「特集危機に瀕する少数言語のいま」(『ジョイン』(文教大学学園)36号, http://www.bunkyo.ac.jp/koho/join/pages/36/tokushuu36-1.html)中の記事や 東郷(2001)も参照されたい。

少数言語を話す人々の中には、みずからその言語の維持ないし復興のために さまざまな活動をし、インターネットを活用している人々もいる。上述のアイヌ語は その一例であるが、アメリカ、オーストラリアなどの例については後藤(1998, 2000)に 紹介しておいた。もっともこのことはインターネットのインフラを整備されている 地域だから可能なのであって、アフリカ大陸のようにインフラが未整備である ところでは、その土着の言語はインターネットの恩恵を受けることはできない。

少数者が自分の言語を使う権利を人権の一つと考えるのが言語権(Language rights, Linguistic (human) rights)という考え方である。言語権は法律上の権利として 必ずしも確立してはいず、一般にはまだあまりなじみのない概念であるが、 国際ペンクラブが中心になって採択した「言語の権利に関する世界宣言」 (世界言語権宣言。日本語訳は、 http://www.tooyoo.l.u-tokyo.ac.jp/linguistics/ichel/udlr/udlr-j.html)が 基本的な文書といえ、より詳しくは言語権研究会 (1999)から知ることができる。

言語権の一つとして、政府・行政機関との関係において自己の言語を使う権利が 挙げられる。もし船橋が言うように日本の言語政策を多言語原則の上に据えることに するのであれば、住民である非日本語話者が実際に使う言語が選ばれるべきだ ということになる。地方自治体レベルであれば、地域の実情に応じて多様な言語 (朝鮮語、中国語、タガログ語、ポルトガル語等々)が用いられるべきであり、 英語が選ばれる必然性は(英語話者が特に多い地域を除けば)ほとんど ないはずである。

5. むすび

三浦(2000)は、近代国家パラダイム、国際語パラダイムに対峙する 脱国民国家的世界システム、民際語パラダイムを展開する必要性を述べている。 この考え方は、国家の単位を超越するコミュニケーションシステムとなりつつある インターネットの在り方と相似するところがある。

確かに英語という一つの言語が全世界的に通用するようになることは、大きな 便宜の向上であると言える。特に、経済的な観点からは大変に好ましいことなので あろう。英語公用語化論は、必ずしも公正とは言えない現状を追認した上で、 便宜の観点を重要視するものだが、その裏にある人権の面をおろそかにしている点で、 一面的な議論である。

国連は1994年の総会で1995年から2004年までの十年間を 「人権教育のための国連十年」 (http://www.unhchr.ch/html/menu6/1/edudec.htm)と位置づけており、21世紀を 「人権の世紀」と呼ぶこともある。また、上述のようにユネスコは地球規模での 「多文化共生」を目指しており、日本国内各地の自治体や民間組織もそれぞれの 地域において多文化共生に向けた取り組みを行っている。情報通信技術が一助と なってこのような普遍的価値が尊重される社会の実現に近づくとすれば、 正にこのことこそ IT革命の「革命」たる所以と言えるであろう。

付記:本稿は、対象とする読者の違いを考慮したため、後藤(1998, 2000)と 一部重複する部分がある。

参考文献


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