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『エスペラント』(La Revuo Orienta) 第79巻(2011)11月号, pp.11-12. 掲載

de vorto al vorto (24) morti

後藤 斉


死は厭わしいものであり、あまり口にしたくはありません。しかし、避けて通ることができるものでもなく、時には話題にせざるをえないこともでてきます。

『エス日』はmortiの基本義を「生命体が生命を失う」と挙げた後で、第1義として「〔人・動物が〕死ぬ」と、第2義として「〔植物が〕枯れる, 枯死する」としています。この基本義はむだなように思えるかもしれませんが、日本語の訳語では異なってしまう第1義と第2義がmortiの語義としては一つの基本義にまとめられることを示しています。これに対して、生命体以外に使う第3義「消滅する, 使われなくなる; 効力を失う」は明らかに派生的な転義としての使い方です。このうち、容易に予想できることですが、人の死について使うことが最も頻繁です。

Li mortis en 1990 [sia hejmo].のように、時あるいは場所などを補足する語句を付け加えることもよくありますが、これは表現として難しくないでしょう。Li mortis subite [trankvile].「突然[安らかに]死んだ」など、死に方の様態を描写する副詞が付くことも理解できるはずです。morti heroe, mizere, tragikeやmorti nature「(病気や老衰で)自然死する」、morti nenature「不慮の死を遂げる」などもあります。

日本語の感覚では「80歳で死んだ」も同じように思えるかもしれませんが、エスペラントではŜi mortis 80-jara.と形容詞にするのが普通です。「80歳で」は死に方の様態というより、主語で表される人の状態だから、というのがエスペラント文法での理屈になるでしょう。Ŝi mortis, 80-jara, en 1990.のように句読点を打つことによって、主語にかかることをはっきりさせることもあります。なお、morti en la aĝo de 80 jarojとすれば、形容詞か副詞か悩まなくて済みます。同様の例として、morti (mal)juna, (mal)riĉa, senkulpaなどがあります。

morti feliĉa/feliĉeの場合は微妙です。形容詞feliĉaであれば主語の状態の、副詞feliĉeであれば死に方の様態の描写ですが、この場合には結局のところあまり違いがないようにも思えます。

mortiは自動詞ですが、morti gloran morton「栄光の死を遂げる」という構文が可能です。他にmorti (ne)naturan mortonなども見られます。この構文を避けたければ、morti per natura mortoと言うこともできます。

なお、生と死の境は一瞬ですからmortiは本来の語義では点動詞と考えられます。しかし、確実に死が近づいている状態ではすでに死が始まっていると捉えることも可能でしょう。このように死につつある過程にあることを示すときには、mortiを線動詞として扱ってLa malsanulo mortas.「病人は死にかけている」、mortanta malsanulo「死にかけの病人」と言うことになります。

「生命を失う」が中心的な語義ですが、そこから離れて、言いたいことを強調するときに死を持ち出すことは日本語でもよくあります。エスペラントでもMi preskaŭ mortis pro rido.「笑いで死ぬほどだった」、Mi volas morti pro honto.「恥ずかしくて死にたい」、Mi mortus pro enuo.「退屈で死んでしまいかねない」、Mi preferus morti ol foriri de vi.「君のもとを去るくらいなら死ぬ方がましだ」といった表現があります。このように副詞preskaŭや仮定法を使って死についての表現の部分は控えめにするのが普通ですが、言いたいことを特に強調するときにはMi mortas pro malsato!「空腹で死んでしまう」とストレートに言うこともありえるでしょう。

転義の使い方では生命体以外のものが主語になります。societo, asocio, ligo, kluboなどの組織体や、movado, ekonomio, lingvo, dialekto, lingva diverseco, gazeto, afero「事業」のような組織の活動などに関係する名詞が主語になることが多いようです。malamo, juneco, karieroなどの個人の感情や状態、活動に関わる名詞が使われている例もありますが、あまり目立ちません。

分詞形容詞になると、もう少し広い名詞とのつながりが見られます。mortanta dialektoやmortinta urbo, vulkanoなどです。KD estas mortanta.「CDは消滅しかけている」という実例も見受けられます。

mortiにはいくつかの類義語があります。pereiは事故死や戦死、獄死など「非業の死を遂げる」を表し、droniは「おぼれ死ぬ」です。krevi「破裂する」を「死ぬ」の意味で使うのは、実例もあるものの、まれです。

fali「倒れる, 転ぶ」も、特にfali en bataloなどのつながりでは、「死ぬ」の意味になります。離脱・消失を意味する副詞forを接頭辞的につけたforfali, foririも、文脈によっては「死ぬ」を意味することがあります。

直接的な表現を避けたい場合は、forpasiと言います。特定の個人の死について言うとき、例えば訃報などでは、forpasiを使うのが一般的です。Kun bedaŭro ni anoncas, ke forpasis S-ro ...「遺憾ながら〜氏のご逝去をお伝えします」など。forpasiは死との連想が強く働くようになっており、文字通りの「去り失せる」の意味で使うことはあまり多くありません。forpaso「逝去」、forpasinto「故人」などの派生語もよく使われます。また、哀悼の気持ちをこめて親しい故人をnia bedaŭrata amikoと表現することもあります。

「死ぬ」の意味のえん曲表現としては、perdi la vivon, adiaŭi la vivon, ĉesi spiri, ellasi [spiri] la lastan spiron「息を引き取る」、ekdormi por ĉiam「永遠の眠りに就く」などもあります。信仰によってはĉieliri, iri en paradizonと言うこともできるでしょう。

死と密接に関連した単語としてtomboがありますが、Li nun kuŝas [ripozas] en sia tombo.と言えば、「彼はもう死んでいる」ということになります。funebro, kadavro, ĉerkoなどの単語も死と密接に関連していて、直接morti, mortoと言わなくても、人の死が話題になっていることがわかります。kondolenci, nekrologoも同様です。

cindro「灰」は、たばこやたき火など、いろいろなものの燃えかすを表しますが、文脈によっては、特に人の遺灰(遺骨)を指します。lamenti「嘆き悲しむ」もその理由はさまざまであっていいのですが、人の死を悼む場合に使いやすい単語です。これらも時として死への連想が働きます。


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