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『東北大学言語学論集』第24号, pp.1-14. 掲載に補訂
吉野作造は政治学者、また、民本主義を唱えた大正デモクラシーの旗手として著名である。その思想や人物像が近年でも当該分野の研究者の関心を引き続けていることは、ここ10年以内にも田澤(2006)、松本(2008)、尾崎(2008)、三谷(2013)などが出版されていることに示されている。出身地である古川(現宮城県大崎市)には関連した資料を展示する吉野作造記念館が設置されており、また、その名を冠した賞として、政治・経済・社会分野の優れた著作を対象にした読売・吉野作造賞が中央公論新社により毎年授与されている。
その経歴について、本稿において詳しく紹介する必要はなかろうが、念のため概略を見ておこう。1878年に生まれた吉野は、旧制二高の法科を経て東京帝大法科大学に進む。この間、聖書に親しみ、受洗もしている。大学卒業後、袁世凱の長子の家庭教師として天津に赴任。1909年東京帝大法科大学助教授に迎えられ、翌年から3年間ドイツを中心に留学し、欧米を巡る。帰国後の1914年に教授に昇任するが、1924東大を辞した。朝日新聞に顧問として迎えられたものの、筆禍によりすぐ退社を余儀なくされる。その後は、著述、教育、社会活動を活発に展開したが、病にも苦しみ、1933年に没した。
吉野の知的関心が政治方面に限定されていたわけでなく、多方面にわたるものであったことも周知のことである。とりわけ、関東大震災による社会の激変の後に明治文化研究会の結成の中心となり、会長として例会の開催や文献の収集・刊行に務めたことは、吉野の経歴の中で大きな位置づけを与えられている。
日本と西洋との交流について関心を寄せたことも広く知られている。新井白石が屋久島に潜入したイタリアの宣教師シドッチ(Giovanni Battista Sidotti)を取り調べた記録『西洋紀聞』に触発されて、吉野は『主張と閑談 新井白石とヨワン・シローテ』(文化生活研究会, 1924)を著した(「シローテ」は白石の表記)。その「はしがき」の書き出しには「明治文化のうち西洋文明に影響された方面を歴史的に研究しやうといふのが此数年来の私の題目だ。」と記されている。
吉野が語学への強い関心を持っていたことも確かである。1910年からの3年間の欧米留学では、ドイツに主に滞在しオーストリア、フランス、スイス、イギリス、アメリカなども巡ったが、その間、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語などの学習にも励んだだけでなく、現地の人と積極的に交流した(飯田 1996)。のちにはロシア語、オランダ語などにも取り組んでいる。
吉野は日本におけるエスペラントの先駆者の一人でもある。早くも1903年に英語雑誌からエスペラントを知り、ロンドンから教科書を取り寄せて勉強した。この時の学習は中絶するが、吉野は1919年にエスペラント学習を再開し、しばらく持続した。ここでの関心は、中国人朝鮮人の学生と平等の立場で話しあいたいということが動機であったようで、周囲の学生にもエスペラントを勧め、日本エスペラント学会の評議員にもなった。筆者は柴田・後藤編(2013)のほか、後藤(2015)でも吉野のエスペラント活動について触れておいた。ここに書き漏らしたこととして、吉野の日記(『選集』13~15巻)には1922年11月23日にもエスペラントの学習に励んでいたことが記録されている。
しかしながら、吉野が西洋人による日本語研究に関して著述を残していることはほとんど知られていない。関係の論考は、いずれも1923年に刊行された『西洋人の日本語研究』と題する小冊子(宮城県仙台第一中学校学友会の創立三十周年記念号付録)と「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」と題する『中央公論』(1923年4月号,pp. 124-141)に掲載した論文である。
吉野は、この二つの論考とほぼ同時に「書架の前にて」(『明星』1923年4月号,pp. 45-49)と題する文章の一節で、キリシタン資料の一つであるコリャードの『懺悔録』を短く紹介していた。のちに『懺悔録』の大部分の翻字を「切支丹懺悔録」として『改造』(1928年2月号,pp. 86-98; 1928年3月号,pp. 47-57)に掲載する。これらは西洋人の日本語研究そのものを扱った著述ではないが、吉野の関心としては関連している。
これらの著述のタイトルは『吉野作造選集』別巻の「吉野作造著作年表」に挙げられており、その存在自体は知られていなかったわけではない。しかし、吉野の膨大な著作の中で埋もれていたとは言えるだろう。吉野の思想や行動に関心を寄せる人にとって、これらの著作のテーマは大きな関心を引くものではなかったであろう。同巻の年譜では、主要なものではないとみなされたとみえて、触れられていない。一方、言語学、国語学(日本語学)の研究者にとっては、政治学者吉野作造にこのような著作があることは想像の外だったのではなかろうか。
西洋人による日本語研究について歴史を通して概観した論考として、上田(1890)や安藤(1907)が早いものであるようだ。キリシタンによる日本語研究については、本格的なものとしては新村出の業績が先駆である。新村の関心もヨーロッパと日本の文化交流全般にも及ぶものであったが、いずれにせよ、新村(1915)を筆頭とし、大英博物館やオックスフォード大学で実見した資料をも利用した関連の著作の数々は、幅広い範囲に関心を呼び起こした。吉野も当然に承知しており、新村の著作を参照している。新村の業績はさらに土井忠生らに発展的に受けつがれることになった。
亀田次郎は研究を集大成せずに没したためその業績は現在ではそれほど知られているとは言えないが、古辞書研究など国語学史のほか、西洋人の日本語研究の分野でも研究を発表していた。その名は国語学会編(1955)、同(1980)に立項されてもいる。1931年度の大谷大学における講義録が雨宮編(1973)として公刊されており、最近でも専門の文献では参照されることがある。
吉野はこれらと時代をほぼ同じくしてこの分野の研究に取り組もうとした先駆者の一人であったとも言える。これらの論考は確かに吉野の日欧交流史への関心の中に位置づけられるにしても、「明治文化のうち西洋文明に影響された方面」には該当しない。このテーマは吉野の業績の中で比較的孤立しているように思われる。
言語研究の分野への吉野の関心は、日本初の近代的国語辞典『言海』(1889-1891)の編纂者であり、『広日本文典』(1897)なども著した大槻文彦を深く敬愛していたことも関連していた。吉野は新設された仙台の宮城県尋常中学校に進学(1892)したが、その初代校長を務めたのが正に、仙台藩の学者の家系の出身である大槻であった。仙台に進学する吉野のために古川の有志が『言海』を贈ったというエピソードも伝わる。江戸時代には写本としての流通に限られていた『西洋紀聞』を校訂し出版(1882)したのが大槻と箕作秋坪であったという事情も重なってくる。
吉野は、西洋人の日本語研究に関して、専門外であることは自覚していた。「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」の冒頭で、「専門家の間に疾うの昔に知れ渡つて居る事などに無駄骨を折つた点が尠らずあるに相違ない。」と認めている。それでも、このテーマは少なくとも一時期は吉野の知的関心の一角を占めたのであり、吉野がその研究に、短期間とはいえ、集中的に真剣に取り組んだことは事実である。吉野らしい視点も見られないわけではない。本稿では、現在ではほとんど忘れ去られている吉野のこの方面の論考を紹介し、その知的関心の広がりのさまを振り返ってみたい。
吉野の中心的な関心からはずれるようにも見える、西洋人の日本語研究に関する論考は、門外漢が単に先行研究の焼き直しを図ったようなものではない。彼自身が図書館で原資料を調べて読みとったことに基づいているのである。その研究ぶりは日記に語られている。
吉野の日欧交渉史への関心は長く続いたので、西洋人による日本語研究の分野に限定した関心がいつごろから生まれたかは特定しがたい。例えば1922年8月5日には講演旅行で訪れていた別府から大分に赴き、「教育会図書館で福沢先生所蔵のどうふ和蘭字書十冊を見る 大友宗麟以来洋学に関係深き所たる丈何かありさう也」と関心を示している。
吉野は1923年1月から西洋人による日本語研究の分野の文献の調査と原稿の執筆に取り組む。これにはさらに何かきっかけがあったのかもしれないが、分からない。日記(『選集』第14巻所収)にみられる関係の記述を抜粋してまとめてみよう。
日記によれば、1月18日にドンケル=クルチウスの日本文典に触れてから、急に思い立ったように西洋人の日本語研究およびキリシタン関係の多くの文献を熱心に調査するのである。『中央公論』4月号に掲載されることになる「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」の執筆に向けて関連資料を次々と読んで整理していく、吉野の研究ぶりがはっきりと見てとれる。後述のように、後にも関連の文献に触れる機会はあるのだが、明らかに吉野はこの2ヵ月ほどに集中的に関心を高めたのである。
なお、途中2月4日は「午後学校にゆき例の論文の続きをかく」とあるが、この「例の論文」もこの関係かもしれない。また、日記からは宮城県仙台第一中学校学友会に『西洋人の日本語研究』の原稿を提出した経緯は読みとれない。
多忙と言いつつ、執筆に必要な範囲を越えた作業をしているようにさえ見える。『和蘭辞彙』(桂川甫周編『和蘭字彙』であろう)はドゥーフを引き継いでいるにしても直接には西洋人の日本語研究ではなく、実際「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」で言及されない。脱稿を見た後にも関心がどんどん膨らんでいったのであろう。コリャード『懺悔録』を訳[ローマ字から翻字]したりする必要まではなかったはずであろうに。鈴木正三とその『破切支丹』は、キリシタン関係とはいえ、さらに派生的な関心の拡大になる。
当初は「上篇」と「続稿」の二部構成を考えていたのだろうか。また、掲載誌としては文芸誌の性格から内容的にふさわしいと『明星』が思い浮かんだのであろうか。実際には『明星』(1923.4)には、キリシタン資料の一つであるコリャードの『懺悔録』を短く紹介し、部分的な翻字を添えた一節を含む「書架の前にて」と題するエッセーが掲載された。
「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」が『中央公論』に掲載されることになったのは、この前後の時期に吉野は『中央公論』と深い関係にあったからである。「吉野作造著作年表」に現れているように、この前後の時期に無署名の巻頭言を含めて寄稿は極めて多い。読売・吉野作造賞が現在でも中央公論新社によって運営されている所以でもある。吉野の通常の寄稿とはテーマを異にするものの、掲載を依頼しやすかったのであろう。
この前後(に限ったことではないが)、吉野は『中央公論』だけでなく雑誌への寄稿は極めて多いが、日記に雑誌の「出来」まで記すことはまれであるようだ。吉野がこの論考に込めた思いが現れたものと推測することもできよう。
この小冊子は、宮城県仙台第一中学校学友会から「創立三十周年記念号付録」として刊行されたものである。本文9ページ弱の中で、キリシタン時代から近代までの西洋人の日本語研究を概観して、多くの人名を挙げる中でメドハーストとシーボルトの二人を「看逃してならぬ」としつつも、「慶長頃の人としてはロドリゲース、幕末頃の人としてはホフマン博士、之が日本語学界に於ける二大偉人と称することが出来ます」と結論づけている。
この冊子は、現在では国立国会図書館がインターネットを通じて公開している近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)において誰でも容易に閲覧することができる(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965604)。なお、近代デジタルライブラリーは2016年5月に国立国会図書館デジタルコレクションと統合して、新しいURL (http://dl.ndl.go.jp/) になることが予告されているが、当面は引き続き同じURLでもアクセスできるとのことである。
冊子の奥付には大正12(1923)年2月27日印刷、同28日発行の日付があるが、本文の末尾には「―【大正十二年二月二十八日記】―」とある。その同日に発行されることはありえないから、実際の印刷発行は3月に入ってからと推測される。国立国会図書館蔵本の1ページには3月21日付けの「内交」のスタンプが押してあり、検閲のために内務省に納入された図書がこの日に帝国図書館に交付されていたことがわかる。実際の発行はこの日に近かったのであろう。
宮城県仙台第一中学校は現在の宮城県仙台第一高等学校の前身であるが、さらにその前身である宮城県尋常中学校に、上述のように、吉野は第一期生最初の新入生として1892年に入学した。創立30周年を迎えて、学友会が『学友会雑誌』を記念号として刊行するために、大先輩である吉野に寄稿を依頼したのであった。吉野の寄稿が〆切に間に合わなかったので、これだけが別冊として印刷されたものらしい。ただし、『学友会雑誌』の創立30周年記念号は宮城県仙台第一高等学校にも保存されていないとのことであり、他の図書館での所蔵も確認できないので、これ以上の経緯はわからない。
いずれにせよ、このような流通の限定された、特殊な発行形態になったため、知られることが少なかったものである。もっともそれが幸いして、国立国会図書館では図書の扱いとなって、独立して蔵書目録に掲載されることになり、デジタル化されることにつながった。
本文の冒頭で、このテーマを選んだ理由が述べられている。寄稿の依頼に対して、最初は「日本文化の開発と大槻家との関係」を書こうとしたと言う。しかし、「今非常に忙しいので、之を完成するに十分の時が無い」ため断念し、「大槻先生が明治に於ける語学界の大先達である点に因み」この題を選び「この同じ題で兼々書いて見やうと企てゝ居る事の要領だけを認めることに致しました」とのことである。いずれも大槻がらみであることは、「今母校の紀念を祝ふに当り私はまた学校そのものと共にこの名校長を思ひ起さゞるを得」ないとの理由からであった。
「詳細は近く別の機会で学界に公表する」とも述べられている。つまり、これは「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」のダイジェスト版に相当することになる。しかし、単純な縮小版ではない。『西洋人の日本語研究』の方は西洋人の日本語研究をキリシタン時代からおおむね時代順に概観していくのに対して、「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」は幕末のドンケル=クルチウス日本文典から出発して全体を概観する。時間がないと言いながら、吉野は二つの論考の間で構成を変えるだけの配慮をしているのだ。
本文の内容についてはこれ以上触れる必要はないであろう。新村らの業績に負いながらも、多くの文献を実見した上での記述になっている。吉野独自の感想が加えられているらしいところを少し抜き出すにとどめる。
ロドリゲス『小文典』のフランス語訳について「私も東京帝国大学図書館所蔵の一本を一ト通目を通しました」と記しているのは、日記の2月3日条に対応する。日記では序文を読んだことになっているが、本文もざっとは見たのであろう。「内容の批評は長くなるから略します」と付け加えているが、「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」の中の『小文典』を扱った節で「緒論の中から一寸面白いと思つた二三点を摘記してみやう。」として実際には5項目挙げた事項のことなのであろう。
コリャードの文典と辞書について、「西洋にもチョイ/\見付かります。珍本ではありますが、絶対に手に入らぬといふ程のことはありません。」と述べているのは、古書収集家でもある吉野の体験を反映しているのであろうか。
『中央公論』(1923.4)に掲載されたこの論考で主に扱われているのは、ヤン・ヘンドリク・ドンケル=クルチウス(1813~1879. Jan Hendrik Donker Curtius)が執筆し、ホフマンが増補を加えて刊行した日本文典"Proeve eener japanische Spraakkunst"(Leiden, 1857)の、パジェスによるフランス語訳"Essai de grammaire japonais"(Paris, 1861)である。なお、吉野はこの書を「ドンケル・クルチウス日本文典」と称し、パジェスをここでは「パーゼ」と表記している。
吉野は東京帝大附属図書館蔵のオランダ語原書をも参照して、その序文の記述をもとにこの日本文典の成立と翻訳の由来について述べるのであるが、内容はそれにとどまらない。冒頭で吉野は執筆の動機を「西洋に於ける日本文典の研究の模様と之に関係した以上の人達のことを一ト通り知つて置かうと云うのが、此の古本を手にするに依てそゝられた僕の調査事項の主点である。」と述べる。日記1月18日条と対応する。
ここで「以上の人達」とは、ドンケル=クルチウス、ホフマン、パジェスのほかに、ロドリゲスとコリャードである。ドンケル=クルチウス日本文典を記述の出発点としながらも、全体としては、キリシタンから近代にいたる西洋人の日本語研究を、内容上の関連性から時代を下ったり遡ったりしながら、概観するという本文構成を取っている。『西洋人の日本語研究』が中学校の30周年の記念号への寄稿としていわば急ごしらえに書いたのに対して、「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」の方はより本格的な論考として意図されたものと考えられる。
吉野の関心はまぎれもなく「西洋に於ける日本文典の研究の模様」にあったのだが、その観察の中心が、文法記述そのものというより、主として文典および辞書とその翻訳の成立事情にあったことは、やむをえないであろう。文典や辞書の本文よりも序文を読み込んだことが見て取れる。
ドンケル=クルチウスは1852年に最後のオランダ商館長として来日し、のち領事官として1860年まで滞日した。日本が鎖国から開国へ転換して西洋諸国との間に条約に基づく近代的な外交関係を結んでいく時期にあって、それまで西洋諸国の中で唯一日本と通商関係のあったオランダの日本における責任者の立場から、ペリー来航を予告し海軍伝習所の設置を勧めるなど、大きな歴史的役割を果たした。1858年には江戸に参府して、将軍徳川家定に謁見している。その事績のさまざまな側面は、藤本(1986)、V. 中西(1987-1988)、藤本(1988)、フォス編訳(1992)、西澤(2013)、小暮(2015)などで取り上げられている。簡潔な紹介は岩下編(2011)に見られる。
ドンケル=クルチウスは、その職務の中で、日本とオランダ双方で互いの言語の学習を奨励するよう取り計らった。そして、彼自身でも日本語の習得に励んだのである。その経験から、自ら編んだ日本文典がこれである。彼は長崎での日常的な言語使用を念頭に置いた実用的な語学学習書を目指していたことが序文に見える。
原稿は本国政府を通じてライデン大学教授のホフマンに託され、ホフマンが自らの知見をもとに学問的な立場からの増補を加えて出版した。パジェスはキリシタン版『日葡辞書』のフランス語訳(1868)でも名高いが、ドンケル=クルチウス日本文典のフランス語訳でもロドリゲスやコリャードの文法書を参照して、さらに注釈を加えた。
この文典に対する西洋人日本語研究史のなかでの評価はさまざまであるが、一般にはホフマン自身が著し、のちに刊行された日本文典の方が言語研究としては優れているとされ、ドンケル=クルチウスの日本文典はそれに対する先駆けと位置付けられているようだ。
ドンケル=クルチウス日本文典については、すでに上田(1890)に言及があった。安藤(1907)では短く紹介されて、「此クルチウスの文典の編纂法は、全く、実用的であるのに、ホフマンの学術的議論が、其の間に入り交つて居るから、甚、不体裁であつて、且、明瞭を欠いて居る点が多い」と評されている。
亀田(1914-1915)はこの日本文典を詳しく扱う論考である。「純粋の和蘭人の著で、而もまた和蘭文で記したもので斯種の最初の刊行といふべきものである」として、タイトルでは「創刊蘭文日本文典」と表記された。吉野はこれに言及しておらず、この時は存在を知らなかったのだろう。日記の1924年8月25日条になって「朝学校にて亀田次郎氏のドンケル・クルチウスの日本文典に関する論文を読む。」との記述が見える。亀田は雨宮編(1973: 25)においても「当時、必要上から著された此の各種の日本語学書のなかで…特に秀でている」とこれを高く評価している。
ドンケル=クルチウス日本文典は、国語学会編(1955)では「外国人の日本語研究」の項で名が挙げられるにとどまり、その改訂増補である国語学会編(1980)でも巻末の「国語年表」にしかその名は見えない。松村(1970)も断片的な言及にとどまっている。しかし、三澤による日本語訳(1971)が現れることで関心が多少は喚起されたようだ。1974年にはパジェスによるフランス語訳の影印が「天理図書館善本叢書 洋書之部 第V次 語学篇Ⅱ」として刊行された。もっとも、付属の「解説」(河合忠信)では亀田も吉野も言及されていない。杉本(1989)では10ページを充てて紹介されている。
飛田他編(2007)では独立した項目として「クルチウス日本文典」が立項されており、佐藤・前田他編(2014)でも「日本文典(クルチウス)」が立項されている。しかし、この人物の扱いには混乱がみられる。飛田他編(2007)ではこの人物に言及する他の数項目で「クルチウス」とも「ドンケル・クルチウス」とも表記されているのだが、索引では別人として扱われてしまっている。佐藤・前田他編(2014)では、別の「クルチウス」の項ではギリシャ語学者のゲオルク・クルチウスが解説されていて、索引では二人が混同されている。
これらの国語学研究者による紹介や関係分野の論考における言及の多くで、この文典の原著者は「クルチウス」あるいは「D. クルチウス」と表記されている。Kaiser (1995: 22)がCurtiusと記すのも、日本の文献に引きずられたのであろう。
しかし、この人物の家系をたどれば、18世紀半ばにドンケル家の男子とクルチウス家の女子の結婚から生じた家の人物が「ドンケル=クルチウス」を名乗ったものであって(V. 中西 1987-1988)、「ドンケル=クルチウス」で一つの複合姓である。オランダの家系検索サイトgenealogieonline (https://www.genealogieonline.nl/)中において、文典の原著者の項目(https://www.genealogieonline.nl/stamboom-willemse/I4166.php)では姓の部分を明らかに示すため「Jan Hendrik DONKER CURTIUS Mr.」と表記されており、その家系をたどって確認することもできる(2016年1月6日確認)。
商館長にして日本文典の原著者であるこの人物を「クルチウス」と呼称することは国語学研究者による論考だけでなく、日本史の分野でも見られることではあるが、上記の事情からして、このような省略は適切でない。「ヤン・ヘンドリク・ドンケル=クルチウス」、「J. H. ドンケル=クルチウス」、「ドンケル=クルチウス」のように呼称するのが適切である。本稿におけるその名前の表記は、引用部分を除き、フォスに従うものとする。
この点で、吉野が2つの論考に頻出するこの人物の名を一貫して「ドンケル・クルチウス」と表記していることは、注目してよい。吉野は他の人物に言及する場合、最初は「レオン・パーゼ」のようにファーストネームを添えることもあるが、繰り返して出てくれば「パーゼ」と姓のみで書くことが通例である。吉野の表記が一貫しているところからして、「ドンケル・クルチウス」が複合姓であることを認識していたとみてよい。
日記にあったように吉野は2月9日にオランダ公使館の通訳官と面談して有益な情報を得ている。この時に姓のことも聞いたのであろう。それまで日記での表記(おそらく原稿でも)を「ドンカア・クルチウス」としていたのを、面談の翌日に「題を「ドンケル・クルチウス日本文典を主題にして」と改む」と記していることから、発音についてもこの時に確認したと思われる(なお、2月9日の日記は10日になってから10日分と合わせて書いたものである)。
もう一つの吉野ならではの観察眼として、ドンケル=クルチウスの原稿に対する日本側からの協力者の名前を見よう。原文には長崎通詞のN. M. Hatsijemon とあり、これにホフマンは「Nakamoera?」と注をつけていた。それを保って、亀田(1914-1915)は「ナカモエラ(?)八右衛門(Nakamoera? Hatsijemon)」と疑問符をつけている。三澤の訳では、初出では「中村八右衛門?」と疑問符をつけるが、その後は単に「中村八右衛門」と記している。それに対して、吉野は、中村という名の通事は知られていないとして、長崎高等商業学校の武藤教授に照会した結果「名村八右衛門」であることが分かったと記すのである。国語学の側では、杉本(1989: 122)にいたってはじめて「従来中村八右衛門としているが誤り」と指摘される。吉野の発見は杉本に66年も先行するのであり、彼の優れた探究心の現れと言ってよい。
なお、「長崎高等商業学校の武藤教授」とは、経済学者で歴史家でもあった武藤長蔵である。「長崎学の三羽烏」の一人に数えられた人物で、幕末長崎史料の収集でも知られる。斎藤茂吉ら文人との交友もあった。吉野は最適の人物を選んで問い合わせたことになる。なお、ここで想起されるのは、吉野が『主張と閑談 新井白石とヨワン・シローテ』に序文を寄せてもらったのが、白石がシドッチを取り調べた時に通訳を務めた今村英生の子孫にあたる今村明恒(関東大震災を予知したとされる地震学者、東京帝大教授)であったことである。
本文には日記に表れていた吉野の熱心な勉強ぶりが明らかに現れている。ロドリゲスに言及する部分では、かなり長い引用を含んで新村が参照されてはいるが、それ以外の部分では伊波普猷らの業績を参照することもあるものの、むしろ吉野自らが図書館等で行った調査に基づく記述になっている。例えば、プフィッツマイアーによる日本文学のドイツ語訳には詳しい考察が加えられている。日記によれば、2月9日に『新増字林玉篇』、『書言字考』を調査して原稿を訂正しているが、シーボルトやホフマンの業績に言及する際に引き合いに出すためであった。
ホフマンの辞書に付されたその助手セリュリエによる序文は大分気になったものとみえる。その示唆を受けて、「成る程さう云はれて見ると、此の辞書には漢語が非常に多いのに気が附く」とコメントをつける。また、文部省編『語彙』の編纂ぶりからすると日本の学者はホフマンの文典を参考にしたらしいとのセリュリエの言にも関心を向けている。『語彙』は大槻文彦が編纂に関わったものの中絶に終わった日本語辞書である。「ホフマンの文典に依て当時の国学者が多少でも啓発されたとすれば、是非とも看過すべからざる事柄」であるとして、「大槻文彦先生にでも伺つて見たい」と感想を述べるのである。
ゴシケーヴィチの『和露字彙』については、「函館図書館の珍蔵に係るものを同館長岡田健蔵君の好意に依て借覧するを得た」とのことである。別の機会に調べたことがあったのだろうか。吉野の日記には、1922年9月14日に「朝早く約によりて函館図書館を見にゆく 岡田健蔵君の好意により得る所頗る多し 之は別に記事を作る考えなり」とあり、この時に見たのであろう。
この論考は『中央公論』に発表されたのであるから、多くの人の目にとまったであろうことは間違いない。年代を追った記述ではないが、あるいは、そうであるだけにかえって、西洋人による日本語研究を一般読者向けに概説したものとしては読みやすくまとめられているように、筆者には思える。しかし、国語学者の側からの反応はなぜか見受けられない。国語学者と違って西洋の事情に通じていた吉野は、その紹介にあたって彼の立場からの鋭い観察眼を示したのであるが、残念ながら「学界に公表」する希望は実質的には実らなかったのである。
上述のように、「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」執筆のための文献調査の中で、吉野はコリャード『懺悔録』に関心を示した。その関心の強さは、当面必要のない翻字にまで取り組んだほどであった。そして、「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」の中で「茲には関係がないが非常に面白いものだから一寸紹介しておく」とした上で十数行ほど触れたのである。本稿でも一緒に紹介するのが適切であろう。
コリャードの『懺悔録』(1632)は、ローマ字書き口語日本語とラテン語の対訳のキリシタン日本語資料である。コリャードの文典および辞書(いずれも同年)とセットになるもので、宣教師に布教活動ための実践的な語学力をつけさせるための資料として意図されたものである。日本人が犯した罪の神父への告白を語ったそのままに記録したという形式をとっており、類例のない資料として独特の価値をもっている。
新村(1915)は「明治四十三年六月」(1910)の日付(初出不詳)で「吉利支丹版四種」と題した文章を収録している。この中で「我国の耶教史料として有益であるばかりでなく、風俗史料としても面白く、口語史料としては屈竟である。」と評を付して、本文翻字抄出とともに解説されたのが、『懺悔録』紹介の初めのようだ。吉野もこれを参照している。
吉野は、西洋人日本語研究に関する二つの論考とほぼ同時に、部分的に漢字仮名交じりに翻字して『明星』(1923.4)に紹介した。ただ、紹介されたのは「三位一体のむつかしい理屈」の部分で、クリスチャンの吉野にとっては「色色の意味に於いて非常に面白いもの」であったにせよ、多くの読者には退屈なものに過ぎなかったのではないだろうか。
吉野の『懺悔録』への深い関心は持続し、ときおり意味不明の個所を多くの人々に聞いて回ったようだ。日記の1924年9月3日条に見える「昼食後姉崎氏の室にゆき日拉字書を見る 一五九五年天草で作つたものを一八七〇年羅馬で複製せしもの也 珍しい字書なり」といった機会に相談したのであろう(なお、刊行年から判断すると、これはいわゆるキリシタン版『羅葡日対訳辞書』をもとにしたプティジャン編『羅和辞典』のことと思われる)。相談を受けた東京帝大教授で宗教学者の姉崎正治は、姉崎(1925)の「序言」で「吉野作造君…つゞいて出るべき「キリシタンの懺悔」の早く出ん事を祈る。」と、吉野が『懺悔録』の調査を進めていることを公開してしまった。
このため諸方面から公表を勧められた吉野は、キリシタン研究家松崎実に依頼して翻字の訂正を行い公表に踏み切ることにした。このようにして、解題とともに大部分の翻字が「切支丹懺悔録」の題で『改造』(1928.2; 1928.3)に吉野の名で掲載された。姉崎の関与や松崎の助力などの発表にいたる経緯は「はしがき」に明記してある。新村の評価を引き継いで、「文化史研究上から本記は逸すべからざる貴重資料」であり、「国語研究上の資料としても本記録は逸し難いものである」と述べるが、「言葉遣ひは外人の日本語たるを失はす、中には欧文の直訳体のやうな云ひ廻しも二三箇所あり、…、当時の日本語としても相当割引して考へねばならぬ」と慎重さを示してもいる。
「大部分の翻字」と言ったのは、「六番の御掟に就て」は「邪淫を犯すべからず」の禁に関する告白の記録であるため、「当時の風俗習慣、信仰状態などを、裏面から端的に窺知し得る無二の珍資料」と述べながら、一般向けの『改造』という雑誌の性格も考慮してか、「風俗を害する恐れあるを以て全部削除した。」と自己規制したからである。このため本文全体ではないのだが、ほぼまとまった形では初めてその内容が一般に紹介されることになった。
その独特な性質からして『懺悔録』の翻字は困難を伴う。ここでその翻字の質を検討する余裕はないが、結局、姉崎は「吉野、松崎両君の跡を追うて、出来るだけその欠点を除いてみた」という自らの翻字を姉崎(1930: 541-584)で発表することになった。また、これとは別に長沼賢海は、1914-1915年にヨーロッパで収集したというキリシタン文献の一つとして『懺悔録』の翻字を長沼編(1929)に収録していた(印刷にとりかかったのは1926年秋からだと言う)。後者について姉崎(1930)は「殆ど問題にならぬ」と評する。 「六番の御掟に就て」については、長沼も姉崎も内容の公開をはばかり、部分的な脱字やラテン語での置き換えなどの手段を用いた。この章全体の初めての翻字は、助野(1954)が「研究者の便宜の一助として、敢えて」行うことになる。
土井(1932)では、九州方言について検討の上で、吉野・松崎、姉崎、長沼の翻字を指して、「以上三種の国字本は…翻字上最も必要な語学上の用意と工夫が充分でなかつたかの憾がある。」と評している。『懺悔録』の翻字や解釈上の疑問点の多くが克服されるのは大塚光信の業績によってのことになる。現在ではさらに、日埜博司の(参考文献に挙げなかったものも含めた)業績も得られるようになった。
注目すべきこととして、歴史考証家としての吉野は解題において、告白の内容を史実と照合したうえで、それらが実際に記録されたのはコリャード以前のことであろうと推測し、後年にコリャードがそれを集めて編纂したものに違いない、と指摘した。この見解を姉崎(1930)は受けついで、「材料の蒐集については何の明す所もない。是れ実に編者として不公明の態度であり、他人の集めた材料を我物顔に、自らAuctorと名乗るものだといふ非難を免れない。」とコリャードに対する強い批判にまで押し進めた。助野(1954)はそれほど厳しい態度は採らないが、姉崎の見解を踏襲している。大塚はコリャード(1986: 160-164)で姉崎に反論するが、「コリャード自身のものでない」可能性は認めているようだ。日埜(2013a: 67-69; 2013b: 156)も、「その当否を糺すことに…さしたる興味を持たない。」と述べながらも、姉崎の批判を「言いがかりに近い」と切り捨てる。姉崎の批判の適否は別にするとしても、この論点が吉野からの重要な問題提起であったことには違いない。
吉野の翻字は姉崎(1930)が現れた時に実質的には歴史的な使命を終えていた。とはいえ、『懺悔録』の内容を一般に広く知らしめたのは吉野の功績に属する。
吉野作造は、西洋人による日本文典の研究の分野で先駆者の一人であったと言える。吉野の知的関心全体からすれば周辺部に属するものであり、吉野の関心と観察の中心が文典とその翻訳の成立事情にあり、文法記述そのものになかったことは、やむをえないであろう。しかし、吉野は専門外のことといえども、真摯に資料に向き合った。資料そのものを読み込んでいたことや適切な人からの助言を借りて疑問点を明らかにしようとした姿勢は明らかである。
その観察において吉野ならではの鋭敏さを示す指摘をしていたことは、必ずしも生かされていないが、記憶してよいことではなかろうか。とりわけ、商館長にして日本文典の原著者たる人物の呼称を「ドンケル=クルチウス」で一貫させることが、現に生じている混乱を繰り返さないためにも、望まれる。
竹中英俊氏には、『西洋人の日本語研究』の存在をご教示いただいた。宮城県仙台第一高等学校同窓会には、宮城県仙台第一中学校学友会創立三十周年記念号に関する問い合わせに応じていただいた。Heidi Goes氏(ベルギー、ゲント大学大学院)からは、ドンケル=クルチウスの呼称について参考意見を頂戴した。記して、深く感謝申し上げる。
引用文中で、漢字は新字体に直し、圏点、傍線、振り仮名等は省いた。
宮城県仙台第一中学校学友会の「創立三十周年記念号」を入手することができた。予想に反して、吉野の「西洋人の日本語研究」は、雑誌全体の末尾(奥付の直前)に掲載されていることが分かった。直前のページに「印刷の都合により巻末に載する已むなきに至りしは返す返す遺憾」という雑誌部主任の名義での断りがあり、また、巻頭の目次には載っていない。ページは本文とは別に1ページから始められており、本文の組版も国会図書館蔵の冊子と同じであるようだ。本文の末尾「―【大正十二年二月二十八日記】―」とある点も変わらない。奥付も国会図書館蔵冊子と同じく、大正12(1923)年2月27日印刷、同28日発行の日付であるが、この奥付は記念号全体のものであり、雑誌の裏表紙裏(表紙3)に印刷されている。ただ、国会図書館蔵冊子にある「創立三十年記念号付録 吉野博士寄稿 西洋人の日本語研究」と記された表紙はない。
ここから判断すると、吉野の原稿は本来の〆切を過ぎて到着したが、印刷製本にはぎりぎり間に合い、最後の段階で変則的な形で掲載することができた、ということになる。このように変則的とはいえ、一応は記念号に掲載された吉野の寄稿が、表紙をつけて別冊の付録としても刊行された経緯については、もはや知る由もないであろう。日付についても謎のままである。
なお、「新井白石とヨワン・シローテ」の初出は『中央公論』(1922.2)である。松本三之介「吉野作造と明治文化研究」(『吉野作造選集』11巻, 369-388)には、次のようにある。
大槻文彦は、吉野の中学時代の校長でもあった。吉野が明治文化の本格的研究に入るにあたって『西洋紀聞』を最初に取り上げた背景には、そうした大槻の縁もあったかもしれないが、…この文は松本(2006)にも再録されている。しかし、「大槻の縁もあったかもしれない」といった曖昧な表現には同意しかねる。
吉野にとって大槻は、中学進学時に郷里の人々から贈られた『言海』の編者という大きな存在であった。その大槻校長について吉野は「日清戦争前後」で次のように回想している。
大槻先生は毎週一時間倫理を受持つて居られた。教室が狭くて事実上合併講義を許さなかつたから、先生としては教場に出られる時間は毎週八九時間に上つたらうと思ふ。よく支那の古諺などを題にして実地修養の工夫を教へられたが、或る年全学年を通じて林子平の伝記を講ぜられたのが今に耳底に残つて居る。先生は何か寓意するところありて講ぜられたのか否かを知らぬが、私共はたしかにこれによつて偏狭な島国根性の蒙をひらかれたと思ふ。教壇の先生はまじめで而も親しみ易く、如何にも頼もしい慈父のやうであつた。全校の生徒挙つて先生に心服して居つたのは、ただに学界の盛名におどかされた為めばかりではなかつた。
大槻が林子平について語ったのは、林子平百年祭にちなんでのことであったろう。これをきっかけに、吉野は「林子平の逸事」を松風琴坊名義で『青年文』(1895.2)に投稿したほど影響を受けたのである。吉野にとって大槻との関係は、しかし、中学校長という、少年時代のつながりにとどまるものでなかったことは、改めて強調しておきたい。
上の付記2で触れた宮城県仙台第一中学校学友会「創立三十周年記念号」には1922(大正11)年6月6日に開かれた創立三十年記念式の記録が掲載されているが、大槻が「学術研究上の注意」を講演した次に講演に立った(というより、どうも吉野の代わりに立つはめになった)佐藤彰の言葉に次のようにある。
今日は、吉野博士が御見えになりませんが、第三者から聞きますと、同博士は大槻家と仙台の文化ということについて、御話されることであつたやうに、承つて居ります。
つまり、吉野は、創立三十年記念式で講演することを依頼されていたのに何らかの理由で取りやめたのだが(この前後の経緯は不詳)、その埋め合わせに「西洋人の日本語研究」を寄稿したのである。テーマとしては、佐藤の証言のような「大槻家と仙台の文化」よりは、文中にある「日本文化の開発と大槻家との関係」の方がよりふさわしいように思えるが、いずれにせよ、吉野が大槻家の文化史上の意義を高く評価していたことの表れである。
吉野ら東京在住の教え子たちは、定期的に大槻を囲んだ会を開いていた。1924年に吉野らは大槻に喜寿の祝いの木彫胸像を贈るが、吉野がつけた解説文(仙台一高蔵)から少し長くなるが引用しよう。
一度先生の薫陶を蒙つたものは、永く先生を忘るることが出来ない。今や星霜を重ぬること三十有余、先生の門人は各方面に分れて、それぞれ社会に貢献して居る。その中東京に居る者も少くはないが、之等の者は大正の始め頃より一会を組織し、春秋の二季先生を招じて一夕の懇親を結ぶこととして居る。個々別々の訪礼が反つて多忙の先生を累することを恐れたからである。此の催を先生は大に喜ばれ、御病気ででもない限り万障を差繰つて出席せられ、大に若返つて談論せられ、殆ど帰るを忘れられる程であつた。高齢の先生に万一の事あつてはと恐れ、此方から御帰邸を願つた事も度々であつた。此会合には先生も心から満悦を覚へられて居たと思はれる。吉野の日記にも、例えば1917年12月19日に「夕方より学士会に行く 仙台中学会[ママ]同窓会に出席の為なり 大槻先生も来らる 大元気なり」とあり、ほかにも大槻に会った記述がある。
吉野は大槻を深く敬愛して長く交流を続けていたのであり、『西洋紀聞』に校訂を加えて最初に公刊したのが大槻であると知って、そこに縁を感じなかったはずはないのである。だからこそ、本論文で扱ったような論考を著述したのである。
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