10年ののち、そして40年ののちに

卒業生に贈る言葉 2002年度

 今年の年賀状で印象的だったのは,恩師の吉田民人先生や富永健一先生はじめ, 70 歳を過ぎて,昨年度で,あるいは本年度で,教壇を去られる先生が多かったことである。

 フラッシュ・バック――

  40 年前の 1963 年4月,小学校 3 年生だった私は,銀行員だった父の転勤にともなって山形県の寒河江市から宮城県との県境に近い最上町に転校した。 4月8日頃に,母と姉とともに小学校に行ったが,まだ根雪が残っていて,校長先生が自ら屋根の雪卸しをしていた。『北の国から』の純君ほどではないが,こんな田舎に来て,これから自分の人生はどうなるのだろうと,幼な心に思った。春が近づくたびに,もう少し都会の街に行きたいと思ったが,中学3年の夏まで私たち一家はその町にいた。私が原子力発電所や青森県六ヶ所村の問題に,そして「東北」にこだわり続ける原点は,この6年半の本屋もない片田舎での生活にある。「いつか世に出たい」という強烈な思いを育んだのも,この6年半の生活である。

「されどわれらが日々」

  30 年前の 1973 年4月,高校を卒業,親許を離れ大学に入学。稀に駒場のキャンパスに用事があると,胸がチクッとする。甘酸っぱい感覚が押し寄せてくる。「されどわれらが日々」というような。全てがまぶしかった。これから自分の人生を切り拓いていくのだ,という決意(教室の中で学生諸君を見ている青森県六ヶ所村吹越烏帽子岳 2004. Aprilといつも歯がゆくなる。君たちの頃の私はもっと燃えていたし,もっともっと本気だったのにと)。日本海側は冬はどんよりとしているのに,東京は晴天の日が多いこともはじめて実感した。

人生がつながった

  20 年前の 1983 年4月,東大の社会学研究室の助手になり,はじめて安定的な給与をもらえるようになった。自分の人生がようやく「つながった」ような気がした。助手に採用が決まった直後,自分自身へのお祝いとして,「お水取り」の時期の奈良に一人旅をした。

  10 年前の 1青森県東通原発 2005. June993 年4月,東北大の教養部から文学部に移って2年目を迎えた。 3月にカリフォルニアのバークレーを再訪し,山田昌弘君(『希望格差社会』などの著者)をサクラメントに案内したり,サクラメント電力公社に関する追加的な調査を行うとともに,エイモリー・ロビンズのロッキー山脈研究所をたずねた。 NPO やコラボレーションという言葉と出会ったのは,このときのエイモリーとの対話の折にである。エイモリーは3 泊4 日の滞在中, 3 回ともディナーに付き合ってくれるほどの歓待ぶりだった。 96 年刊行の『脱原子力社会の選択』の核になるアイデアは, 90 年から 91 年にかけての在外研究とこの 93 年のバークレー再訪によって得たものである。

 そして 2003 年。今日2月9日, 3月に出す『環境運動と新しい公共圏』(有斐閣刊)の再校を終えた。最近数年間の環境社会学に関する論考を中心に再編成したものである。ある意味では「もの書きになりたい」という本好きだった子ども時代の夢は,これで3冊目の単著と,編著書や監修などの企画として体現されていることになる。

 卒業する君よ,君自身の卒業へのお祝いは何ですか?

  10 年後, 2013 年,君は,後輩たちにどういうメッセージを送りますか? そして 30 年後, 40 年後には?

2003年2月9日