「2006年の漱石」

卒業生に贈る言葉 2005年度

漱石の郵便ポストよ花菫

ヴィクトリア女王時代の郵便ポスト

 古いものを大事にするロンドンには、のちの漱石、夏目金之助が確実に投函しただろう郵便ポストが今も残っている。
漱石ロンドン最後の住居近くの郵便ポスト 2005. Feb. 金之助は、 1900 年 9 月 8 日に横浜港を出発、パリを経て 10 月 28 日にロンドンに着き、 1902 年 12 月 5 日ロンドンを発って帰国の途についた。 1900 年代はじめの 2 年 1 ヶ月を、彼はイギリスで鬱々と過ごした。英文学者・夏目金之助から、近代日本を代表する文豪・夏目漱石に向かう契機となったのが、このイギリス留学だったことはよく知られている。
 金之助がロンドンでもっとも長く帰国まで約 1 年 5 ヶ月借りていた部屋があり、その向かいが今はロンドン漱石博物館になっている。この博物館のすぐそばの郵便ポストは、ヴィクトリア女王時代に設置されたことを示す V というヴィクトリア女王のイニシアルがレリーフになっている漱石ロンドン最後の住居(青いサインの2階の部屋) 2005. Feb.。ヴィクトリア女王は 1901 年 1 月に亡くなっているから、金之助は、ほとんど確実にこの郵便ポストを使ったはずである。私は、オランダからイギリスに飛んで 2005 年 2 月 13 日に現場を訪ねたが、 100 年以上前のポストがそのまま残っていることに深い感動を覚えた。妻の鏡子宛や、正岡子規、寺田寅彦や土井晩翠などへの手紙をおそらくこのポストから投函したのだ。
 あたりには当時できたばかりだった地下鉄の最寄り駅はじめ、当時の面影がたくさん残っているようだ。金之助が気晴らしに自転車を練習したクラッパム・コモンという公園も、おそらくほとんど昔のままの様子である。

 「夜下宿の三階にてつくづく日本の前途を考ふ(改行)日本は真面目ならざるべからず日本人の眼はより大ならざるべからず」

ヴィクトリア女王の死

  1901 年 1 月 22 日、イギリスのヴィクトリア女王は 81 歳で亡くなった。 1837 年 18 歳で即位したから、その統治は 64 年に及び、歴代のイギリス王のなかでもっとも長い。女王の時代は、産業革命で先行した大英帝国の繁栄の時代でもある。これは、女王死去の 5 日後に当時 34 歳の漱石が記した日記の一節である(原文のカタカナをひらがなに代えた)。ヴィクトリア女王の死という一つの時代の終焉を目撃して、金之助は深く日本の前途を憂えたのである。「現代日本の開化は皮相上滑りの開化」であり、「我々の遣っている事は内発的でない、外発的である」(漱石「現代日本の開化」)というのが、漱石の時代認識であり社会認識だった。それはまた漱石自身が乗り越えようとした自己認識そのものでもあった。後年、漱石は、正直に告白している。

 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです。(中略)あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事の出来ない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐(きり)さえあればどこか一ヵ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見するわけにも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。
  私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国にまで渡ったのであります。 (中略)しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出るわけには参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付(みつ)かりそうになかったのです。(中略)
 この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気が付いたのです。(中略)
 私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。(中略)今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。(中略)
 その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰鬱なロンドンを眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩(おうのう)した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。
(『私の個人主義』講談社学術文庫版  pp.132-6 。下線は引用者)

自己発見の旅

 漱石の苦悶は、近代的な自我にとって普遍的な苦悶だったと見ることができよう。のちに漱石の周りには、阿部次郎や小宮豊隆、芥川龍之介など、青年達が集う「木曜会」というサロンができる。直接師として慕った若者たちだけをとってみても、近・現代の日本で最大の教師は、東京大学の教職を辞して小説の執ロンドン橋 2005. Feb.筆に専念していた漱石であるといってもよい。その背後には、漱石自身のこうした苦衷があったのである。

 卒業していくみなさん。制度としての大学は「卒業」ですが、むろん人生という学校には卒業はありません。漱石の上の文章の下線部のように、卒業後もなお鬱々と立ちすくみ続けることもあるのです。自己発見の旅は、自分の鉱脈を確実に掘り当てるまで続いていきます。
  2004 年から 5 年にかけて、 10 ヶ月間、オランダとミネアポリスに滞在しながら、私はときどき自分自身を、いろいろな意味で、 2004 年の小さな漱石のように感じていました。

 卒業していくみなさん、君たちを送りだしたい。「 2006 年の漱石」としての君たちを。

ミネソタにジャズトリオ聴く漱石忌
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2006年2月8日