月から見た地球、太陽系の外から見た地球

卒業生に贈る言葉 2006年度

 「ててまぁー」
 息子は、 3 ・ 4 歳頃まで、保育園の帰りなどに、月を見上げるたびに、こういって指さした。
 地球から一番近い、一番大きく見える星、月。

1969 年 7 月 20 日

 人類が初めて月に到達したのが、 1969 年 7 月 20 日である。現在 40 歳代半ば以上の人の多くは、世界中に同時中継されたこの日の興奮を覚えているだろう。
 卒業する君たちの両親や祖父母も、この日を覚えているに違いない。そのとき、何をしていたのか。どんな感慨を抱いたのか。卒業目前の今、是非たずねてほしい。

 私はといえば、山形県尾花沢市の中学 3 年生だった。教室で、このテレビを見た覚えがある(調べてみると、宇宙飛行士が月面に降り立った日本時間は、 7 月 21 日(火)昼の 11 時 56 分である。記憶はややおぼろげだが、給食の時間を少し繰り上げて見たのではないか)。翌 22 日の朝刊の写真は鮮やかに覚えている。正確には、私は人口約 1 万人弱の県境に近い最上町の最上東中学校から夏休み直前のこの前日、 20 日(月)に、人口 3 万人弱のこの市に、銀行員の父の転勤にともなってやってきたばかりの転校生だった。当時の私にとっては、月面着陸はあまりにも遠い話で、むしろ転校生の自分が卒業まであと半年あまりの間に、このクラスになじめるか、という当面の問題で精一杯だった。より鮮やかに覚えているのは、同じ年 8 月の青森県立三沢高校と愛媛県立松山商業高校が延長 18 回を争って、引き分け再試合となって三沢高校が敗れた夏の甲子園の決勝戦の方である。

ケネディ宇宙センターにて

 この 1 月、 Abe Fellow Retreat という名前の研究会に招かれて、フロリダ州のココアビーチを訪れた。車で 30 分ほどの所にケネディ宇宙センターがある。現在のスペースシャトルに至るまで、アメリカの歴代の宇宙ロケットのほとんどを打ち上げてきた場所である。自由時間に、日本人 4 人、ドイツ人 1 人、日本とドイツのハーフ 1 人の計 6 人で出かけた。「こちらヒューストン、こちらヒューストン」という同時通訳が子ども心に印象的でしたね、と、 Abe Fellow として現在ハーバード大で研究中の上智大学の家族社会学の先生。
  3 万 4000 ヘクタールという広大な敷地面積。センター内のバスツアーによる標準的な見学でも、ゆうに 3 時間がかかった。
 現役の打ち上げ場であるとともに、冷戦時代の米ソの宇宙開発競争から、アポロ 11 号の月面着陸によるアメリカの勝利、現在の国際協力によるスペースシャトル計画へというアメリカの宇宙開発の流れを臨場感たっぷりに感得させてくれる実物のテーマパークでもある。
 展示や案内の全体の力点はスペースシャトルにあるものの、圧巻は、アポロ計画関係のコーナーである。まず前振り的な約 8 分間のビデオを入り口で見せる。スプートニク・ショック( 1957 年 10 月にソ連が世界初の人工衛星の打ち上げに成功し、アメリカや日本などに大きなショックを与えた事件。日本では工学部の定員大幅増の契機となった)、ガガーリンの世界初の有人宇宙飛行の成功( 1961 年 4 月)に対して、失敗が多く、大きくソ連に水をあけられた 1960 年代初期までのアメリカの宇宙開発、 ”We chose to the moon!” と何度も繰り返すケネディ大統領の 1962 年のライス大学(管制センターのあるテキサス州ヒューストンにある)での演説、ジェミニ計画、アポロ計画と続く。発射台の火災事故で飛行士 3 人が死亡したアポロ 1 号の悲劇( 67 年 1 月)をのりこえて、いよいよ月周回をめざすアポロ 8 号の打ち上げへ、と続く。
ケネディ宇宙センター 2007. Jan.
  1968 年 12 月 21 日のアポロ 8 号を載せたサターン V 型ロケットの打ち上げシーンは、管制センターを見下ろすかたちの観客席で、シアター形式での上映である。発射時間が近づくにつれ管制センターのそこかしこが点滅し、窓ガラスを揺さぶる轟音も含めて、打ち上げシーンの臨場感と迫力がすごい。 1 人の管制官が不安と緊張の中で、爪を噛むシーンなどが印象的である。シアターを出ると、全長 111 メートルの本物のサターン V 型ロケットが展示されている。
 月着陸シアターでは、いよいよアポロ 11 号の月着陸シーン。入り口の前に 60 年代風のテレビモニターがあり、パリのシャンゼリゼやアムステルダム、アームストロング飛行士の母親など、世界中が月着陸の同時中継を待っているという当時の映像を映し出す。月面着陸時間が近づき、再びシアターのドアが開く。
 正面には模型の月表面。スクリーンでは着陸船が地上の管制センターと交信しながら、着陸地点を探している。しばしば地上との交信が途絶する。誘導コンピュータからの処理能力オーバーを意味するエラー・メッセージ。着陸予定地点をオーバーしていることに飛行士らが気づく。月着陸船を手動操縦に切り替える。残りの燃料は 30 秒を切る。緊張と焦燥と悲壮感が強まる管制官の刻々の表情。ようやく着陸。アームストロング飛行士が着陸船を降り、左足から月面に降り立つ有名なシーンが続く。先刻とはうってかわって管制センターにはじける喜び。幾つもの予定外の出来事を乗り越えながら、かろうじて、月面着陸に成功したことがわかる貴重な映像だ。
  69 年 7 月当時、また私がこれまで見てきたニュース画像からは、完全にコンピュータ制御された至極順調な予定どおりの着陸だったという印象ばかり受けてきたが、実際は、管制官ですら(管制官だからこそというべきか)、はらはらしどおしの、まったく余裕のない綱渡り状態だったことがわかる。
 最後に、人類史上はじめて月に降り立った宇宙飛行士ニール・アームストロングが、現在のにこやかな笑顔で、 "No dream, No possible." と語りかけて、このシアターは閉幕する。

8ヶ月間の密度

 ここに記してきたように、失敗したアポロ 1 号から 11 号まで、 2 年 6 ヶ月しかかかっていない。この間に 8 機が打ち上げられた( 2号、 3号は、 1 号機以前の打ち上げである)。はじめて月の周回軌道に乗ったアポロ 8 号から、月面着陸に成功した 11 号までは、何とわずか 8 ヶ月という短さである。 40 年近くを経た現在からみても、驚異的な短さではないか。 60 年代終わりまでに月面着陸というケネディ大統領の宣言( 61 年 5 月)があったとはいえ、いかに短期間に集中的に人材と資金が投入されたプロジェクトだったかがわかる。これだけ短期間に達成された国家的プロジェクトは、広島・長崎に投下された原爆開発計画マンハッタン計画があるぐらいだろう。マンハッタン計画も、 1942 年 9 月から 45 年 8 月まで、 3 年弱のプロジェクトだった。

 アポロ計画は、月面着陸の成功と膨大な経費によって、 72 年 12 月に打ち上げられたアポロ 17 号で打ち切りとなるが、アポロ計画に投下された総予算は 250 億ドルと公表されている。
 ライバルだったソ連は、結局、月への有人飛行は実現できなかった。
 月面着陸が成功したのは計 6 回、これまで月に降り立った宇宙飛行士は 2 人づつ 12 人である。

アポロ 13 号の「輝ける失敗」

  1 回だけ失敗したケースがある。 70 年 4 月に打ち上げられたアポロ 13 号は、司令船の液化酸素タンクの爆発事故により、月面着陸を断念し、月着陸船を「救命ボート」として利用するという離れ技で、酸素不足、電力不足、二酸化炭素の増大による窒息死の危険、大気圏突入の失敗の危険などの予期せぬ難題を幾つも乗り越え、地球に奇跡的に生還し「輝ける失敗( a successful failure )」と呼ばれている。月面着陸以上に、評価の高い事件である。事実にほぼ忠実に、 1995 年に「アポロ 13 」としてトム・ハンクス主演で映画化されたが、不慮の事態に遭遇したときの、宇宙飛行士と管制官をはじめ、関係者の問題処理能力の高さ、冷静な判断力、総合力の高さを、 CG を駆使して見事に映像化している。

1969 年 7 月 20 日の意味

 ケネディ宇宙センターからホテルに戻りながら、 1969 年 7 月 20 日は、アメリカがもっとも輝いていた最後の日だったのではないか、国力の頂点だったのではないか、と思った。 40 万人以上が参加したといわれる野外ロック・フェスティバル、「ウッドストック・フェスティバル」が開かれるのは、それから 1 ヶ月もたたない同年の 8 月 15 日から 17 日である。アポロ計画に邁進した 60 年代後半は、黒人暴動が多発し、ベトナム戦争が泥沼化し、学生反乱とウィメンズ・リブ運動、カウンター・カルチャーが高揚した時代でもある。キング牧師の暗殺( 68 年 4 月)、ケネディの弟ロバート・ケネディの暗殺( 68 年 6 月)など、血なまぐさい事件が相次いだ。
 月に約束どおり人間を送り込み、無事生還させることができた国が、それだけのコンピュータ制御技術をもつ国が、ベトナム戦争に苦悩し、国内の亀裂と分裂は深刻化し、既成の秩序への異議申立てに直面する。栄光の裏側で同時進行していたのは「苦悩する大国」というもうひとつのアメリカである。
 若者らの呼びかけで、環境汚染に反対する第 1 回アースディが開かれ、 2000 万人が参加したのは、 1970 年 4 月 22 日である。科学技術の勝利でもあった人類の月面着陸は、皮肉にもというべきか、あるいはきわめて健全なことに、 "Our only Earth ”「かけがえないの地球」「宇宙船地球号」という意識をかきたて、国際的に環境運動の大きなうねりをもたらすのである。 1972 年のストックホルムでの「国連人間環境会議」は、その頂点である。アメリカやヨーロッパの文脈では、環境社会学も、このうねりの一つの産物である。

青い点としての地球

 地球ケネディ宇宙センター 2007. Jan.温暖化問題を扱った話題の映画、アル・ゴアの「不都合な真実」で、もっとも印象的で感動的なシーンの一つは、ラスト近くで出てくる、太陽系の外に飛び出した無人宇宙探査機が 40 億マイルのかなたから送り返してきた地球の映像である。太陽系の外から見た地球は、一つの青い点に過ぎない。しかし確実に、水のある青い星である。

“everything that has ever happened in all of human history has happened on that tiny pixel. All the triumphs and tragedies. All the wars. All the famines. All the major advances.” 

ゴアが引用する、無人宇宙探査機計画の主導者カール・セーガンの言葉である。
 社会学研究室を卒業し、社会に巣立とうとしている君たちの 22 年余りの喜びも悲しみも、家族愛も友情も恋も、そして涙も、もちろん、宇宙からみたこの青い一点の中の出来事である。 “It is our only home.” とゴアは語りかけ、温暖化の危機に直面する地球を守ることはモラルの問題だ、と続ける。

人類の居場所

 人類の居場所は地球にしかない、ということを何人にもまのあたりにさせてくれたのが、 1969 年 7 月 20 日の月面着陸だった。幼子が「ててまー」と指さしたように、有史以来、人類が夢見てきた黄色に輝く月は、実は不毛の大地だったのである。
 月面着陸という究極の夢の実現によって、人類は、共通の夢を失ったのかもしれない。これ以後、宇宙への夢は急速にしぼんでいく。 9 ヶ月後、 3 度目の月面着陸をめざしたアポロ 13 号の飛行は、当初テレビ局には全く注目されなかった(皮肉にも、液化酸素ガスタンクの爆発事故という異常事態が判明して以降、メディアは飛びつく)。月面着陸は、新たな夢をかきたてることにはならなかった。

  NASA (アメリカ航空宇宙局)が公開し、一般に流布している地球の写真は、たった 2 枚しかない。アポロ 11 号の月面から見た半球の地球と、アフリカ大陸が写っているアポロ 17 号から撮影した全球の地球である(満月にあたる真ん丸な地球の写真はこれしかない)。
 人類は失った夢の代わりに、地球を守るという、足元での大きな現実的な課題を意識させられたのである。
 その意味でも、月面着陸が、人類史上、画期的な出来事だったことは疑いようがない。
 太陽電池、コンピュータ制御、インターネット、アポロ計画の副産物はいろいろな分野に及んでいることだろう。

夢と現実のあいだ

 何事もそうだが、夢見ることと、現実を直視することとのバランスのうえに、私たちの人生はある。大人の人生は、とりわけそうだ。夢がなければつまらない。夢だけ見ているのでは、子どもである。
 社会学を学んで卒業する君たちには、ライト・ミルズが「社会学的想像力」と呼んだように、眼前の小さな世界と、人間の五感を超えた歴史の流れという大きな世界とを、いつでも交差させられるようなまなざしをあわせもってほしい。「不都合な真実」を直視し、受け入れる勇気とともに。

 山形県の雪深いいなか町の中学 3 年生だった私が大学を卒業したのは、 1977 年 3 月。今からちょうど 30 年前の春である。
  30 年後の君たちは、次の世代にどんなメッセージを発するのだろうか。

2007年1月25日