遠野——物語の現場

卒業生に贈る言葉 2007年度

東北地方でもっとも魅力的な場所は……

 卒業生のみなさんは、在学中に東北地方をどの程度旅行しただろうか。
 東北の主な地域や市町村には足を踏み入れているつもりだが、その中でももっとも魅力的だと思うのは遠野である。東北の中でも「場所性」を色濃く残している数少ない地域ではないか。言うまでもなく、柳田國男の『遠野物語』(1910年刊、角川文庫・岩波文庫など)の舞台として、特権的な物語性と歴史性がある遠野のホップ畑 2007. May。早池峰山、六角牛(ろっこうし)、猿ヶ石川、綾織など、山の名、川の名、土地の名にも、遠野物語的な世界が刻印されている。文化人類学者の米山俊直が「小盆地宇宙」の着想を得たのも、この場所である(米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』岩波書店、1989年)。有名な千葉家曲り家などに立って、小高い場所から周囲を眺め下ろすと、「小盆地宇宙」のリアリティがよくわかる。

遠野市立博物館とその周辺

 現地を訪れたら、まず遠野市立博物館で全体像をつかむとよい。何度たずねても飽きることがない。何よりも前近代の東北の農山村の、とくに手仕事の豊かさが体感できる。海外でも行く先々でまず博物館と美術館に足を運ぶが、人口3万2千人の街の博物館としては、充実度は世界トップクラスだろう。遠野という文字からも、『遠野物語』のイメージからも、鄙のイメージが強いが、地理的にも歴史的にも、内陸と沿岸を結び、伊達と南部の藩境であり、交通の要衝であったこともわかる。だからこそ、早池峰信仰等とあいまって、旅人との交流が、民話のふるさとたらしめたのだろう。
 博物館の近くには、柳田が宿泊した旧高善旅館を移築復元した「とおの昔話村」がある。旅館の2階で、最晩年の柳田の声を聴くことができる。

遠景が貞任高原 2007. Nov. 朝訪れるのにふさわしいのは、常堅寺の「カッパ淵」である。この付近と、1000体以上のオシラサマを祀ったオシラ堂で有名な「伝承園」近くの光景も、日本の原風景という感じでたいへん癒される。東側を遠望すると、貞任高原に風力発電が20基林立している。貞任高原の名も、前九年の役の勇者・安倍貞任(あべのさだとう)にちなんだものである。

遠野ふるさと村

「遠野ふるさと村」は、私が訪れた限りでは日本でもっとも魅力的な野外博物館である(オランダのアーネムという街には、「遠野ふるさと村」が参考にしたに違いない、1920年代以来の歴史を持つ大規模な野外博物館がある)。
 特筆すべきは、犬山の明治村にしても、生田の日本民家園にしても、建物は全国各地から集めたものだが、遠野ふるさと村は地元のものだけで完結できていることである。元開拓地で、入植者が離農した跡に曲り家を7棟移築し、昭和30年代の遠野の農村風景をできるだけそのままの姿で残すことをコンセプトにしている。規模の大きさ、曲り家の見事さだけでなく、「まぶりっと衆」と呼ばれる地元のボランティアの協力で、畑を耕して大根をつくる、収穫した大根を干す、つけものにする、炭を焼くなど、農作業や季節の伝承行事、農村の生活をそのまま見せようとしている点が何よりも素晴らしい。静的な博物館ではない、動的な、日々の暮らしが四季をとおして生き続けている野外博物館である(支配人の立花和子さんは、なかなか豪快な方である)。前述の施設はいずれも遠野物語関連の施設だが、このふるさと村は、完全に遠野物語や柳田國男と切り離しているのも好ましい
 現代の遠野がどんな地域づくりをしてきたのか、という点については、宮城大学の山田晴義先生編の『遠野スタイル』(ぎょうせい、2004年)が詳しい。

遠野ふるさと村 2007. May

遠野の旅人

 遠野には色々な楽しみ方がある(グリーンツーリズムはじめ社会学的なテーマも多い)。私自身は、昨年(2007年)5月に宮本憲一、淡路剛久、寺西俊一先生など、『環境と公害』の編集同人を案内し、短い時間だが市長や市民グループ・女性グループの代表などと懇談の機会を持ったり(「出張委員会」という名で、毎年春に全国の環境問題や内発的発展の現場を訪れる)、11月には友人のミネソタ大の社会学者、ジェフリー・ブロードベントを案内して喜ばれた。
 井上ひさしに「日本人のへそ」という芝居がある。20年以上前に緑魔子主演の仙台公演を見た。主人公のストリッパーは遠野出身で、集団就職で、列車で上京する。遠野・綾織・岩手二日前……と各駅停車で一駅も漏らさずに駅の名を次々と呼び上げ、……田端・西日暮里・日暮里・鶯谷・上野で終わる。上京の旅を象徴し、名も無き土地に生きる無名の無数の日本人を象徴し、そして新幹線的なものに対抗する卓抜なシーンだった。仙台公演だったので、……岩切・東仙台・仙台・長町・太子堂・南仙台・名取……が大受けだった。
 誰が遠野を訪れ、どんな文章を書いているかとともに、ある人がなぜ遠野を訪れていないのか、という問いも、関心のあり所を示して興味深い。司馬遼太郎の『街道をゆく』では遠野には行っていない。司馬は青森・秋田両県は熱心に歩いているが、岩手県は久慈街道が出てくるのみである。「陸奥のみち」に遠野への言及はわずかにあるが、司馬は素朴な誤解をしている。柳田が「遠野の町に滞留してその伝承を記録し、『遠野物語』(明治四十三年刊)を書いた」(『陸奥のみち、肥薩のみちほか』朝日文芸文庫版、p.21)とするのは誤りで、柳田は滞留して伝承を記録したわけではない。真相は、以下のとおりであり、『遠野物語』の熱心な読者なら犯すはずのない誤りである。司馬は、遠野物語にあまり興味がなかったのだろう。ここでの記述も、有名だが自分にとっては関心が薄い、というトーンで記している。
 2007年8月から、「北の旅人」という520字のエッセーを俳句の雑誌に2年間の予定で毎月連載している。明治以降、東北を旅した人のエッセーを紹介している。1・2回目のイザベラ・バードに続いて、3・4・5回目は柳田國男を取り上げた(原文は縦書き)。

 三十五歳の少壮の現地滞在わずか三泊四日の旅が、その後の日本の学問の歴史、日本文化研究のあり方を大きく変えた。明治四十二年八月の柳田國男の遠野行きである。「天神の山には祭りありて獅子踊りあり。ここにのみは軽く塵たち、紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊りといふは獅子の舞ひなり。鹿の角をつけたる面をかぶり童子五、六人剣を抜きてこれと共に舞ふなり」。漢文脈で格調高い序文の中でもひときわ印象的な獅子踊りの一節は、柳田が偶然見ることのできた実景である。「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」。柳田の気負いは、やがて日本民俗学の誕生となって、見事に大願成就された。
 上野から花巻まで汽車で十三時間。花巻から馬車を乗り継いでさらに八時間かかって遠野に至る。馬を借りて独りで郊外の村々を巡った柳田は、地元出身の佐々木真善の話から思い描いていた情景と現実の風景とが一致したことに喜び、遠野行きの前に既に草稿化していた聞き書きを翌年刊行した。前年の宮崎県椎葉村を含む三ヶ月の九州旅行、この年の木曽、飛騨、北陸への旅も、格好の触媒となった。
 柳田が宿泊した旧高善旅館は移築保全され、遠野では今も「小盆地宇宙」(米山俊直)を実感することができる。

『遠野物語』と『聴耳草紙』

 『遠野物語』は、ここに記したように、彼が遠野に出かける以前に佐々木真善からの聞き書きによって、ほとんど出来ていたのである。柳田の現地滞在は、1909年8月23日夜から26日までの、わずか3泊4日、実質的には3日間に過ぎなかった(柳田国男研究会編『柳田国男伝』三一書房、1988年)。
 『遠野物語』と佐々木真善の『聴耳草紙』(1931年刊、ちくま文庫)を読み比べながら、柳田と佐々木との関係、2人の表現者としての資質の違いを考えることも興味尽きない。
 汲めども尽きせぬほどに、遠野の魅力は深くて大きい。場所性、その土地やその歴史の固有性に関心のある者にとっては、必見の土地である。

2008年2月4日