太平洋の島の旅・島の時間

卒業生に贈る言葉 2018年度

平成最後の卒業生

 卒業生のみなさん、ご卒業おめでとう。平成最後の卒業です。みなさんはきっと生涯、平成最後の卒業生だったことを忘れないでしょう。

34歳でパスポートをつくる

 私自身にとって、平成とはどんな時代だったのか。34歳から64歳の今日までの文字どおり「働き盛り」の30年間です。私の場合、昭和の時代には体験せず、平成になって以降はじめて経験したことに海外旅行があります。はじめてパスポートをつくったのは平成元年(1989年)7月、34歳のときです。この30年間に33ヶ国に行きました(再訪はカウントせず)。3月上旬にはじめてフィリピンに行きますから、まもなく計34ヶ国です。いずれも国際会議や打合せ、現地調査などの「無粋な」仕事の旅です。
 最近でこそ2014年の世界社会学会議横浜大会の組織委員長や日本社会学会の国際発信強化特別委員長を務めていますが、もともとはとても内向きでした。学生時代の趣味は俳句・歌舞伎・文楽。谷崎・川端・三島が好きで、映画も大島渚・吉田喜重・篠田正浩が贔屓。しかも飛行機恐怖症。国内線でも、フライトが近づくと毎回不機嫌になって、連れ合いに呆れられていました。
 卒業生のみなさん、自分を決めつけて、自らを枠にはめて、活動の幅を狭めてはいけません。私のように、人間は容易に変わりうるのです。
 世界社会学会議横浜大会直前の2012年と13年はともに9ヶ国づつを訪問。台北から成田に戻り、空港でシャワーを浴びただけで、そのままオーストラリアのブリスベンに直行という強行軍のときもありました。2013年は大晦日の晩に、南インドから自宅に戻りました。夕方の光に染まる雲の上の富士山を認めたときの安堵感は忘れがたい思い出です。

33ヶ国目のキリバス共和国

北タラワ。ラグーン(礁湖)と呼ばれる浅い水域 さて33ヶ国目の訪問国となったのは、太平洋に浮かぶキリバス共和国です。
 118日から18日まで11日間の旅でしたが、往復するだけで難題です。帰りは現地のホテルを出てから自宅に辿り着くまで、丸2日と20時間(計68時間)。現地の空港を離陸してから最後の仙台空港まででも、64時間かかりました。離陸したのは、仙台空港を含め計8空港。Island Hopper と呼ばれますが、グアムから先は、島伝いに離陸・着陸を繰り返します。経由したのは、グアム(米国の准州)、ミクロネシア共和国(空港から外に出ていないので訪問国に含めず)、マーシャル諸島共和国(32ヶ国目)の3ヶ国。
 今回は、マーシャル諸島共和国の首都マジュロで、1日、ごみ問題や気候変動の影響を調査したので1011日になりましたが、グアム経由でタラワと日本を往復するためには、最低でも10日かかるのです(ブリスベンとフィジー経由で行く方法もあります)。マジュロとキリバス共和国の首都タラワとの間の便は、週1往復しかありません。現地に滞在するのは最短でも56日。不便と言えば超不便です。
 マジュロもタラワもいわゆる観光地ではありません。とくにタラワは俗化していません。マジュロでもタラワでも停電がありました。ATMも数えるほど。インターネットの電波も微弱です。コンビニもスターバックスもありません。しかし仕事の旅であっても、旅の醍醐味は日常からの離脱と冒険にこそありタラワ島の日没ます。不便さこそは、日常性からの離脱を意味します。自明視している常識を洗い流してくれるのです。
 環境社会学者は世界に数百人いますが、気候変動の影響をもっとも受けやすい国、キリバス共和国に行ったことのある社会学者は何人いるでしょう。

 公益財団法人・みやぎ・環境とくらし・ネットワーク(MELON)の理事長として、現地の環境団体Kiri-CAN(キリバス気候変動対策アクションネットワーク)との間の交流協定に調印することが、今回の訪問の目的です。Kiri-CANの若者たちとの懇談などもありました。
 最終日の夕方の調印式は、現地の集落のマヌアバという伝統的な集会所で、子どもたちを含め集落の住民100人以上が見守る形で進められました。歓迎の踊り・唄。最後は全員が輪になって踊りました。とくに豪華な食事がふるまわれたというわけではありませんが、人生の中で、こんなに手厚く、情厚く歓待されたことはないというほどの持てなしぶりでした。私たちに対する期待の大きさを感得した次第です。

重層する時間

 キリバスで感じたのは、現地に流れる時間の重層性です。かなりの住民は昔ながらのパンダナスの葉っぱで葺いた掘っ立て小屋のような家に住み、ハンモックでの昼寝を楽しんでいます。隣近所の助け合い、物々交換も生きています。
 

 
キリバスの環境団体とMELONとの交流協定調印式(2018年11月15日)。右は、ケンタロ・オノ氏
 おそらく200年前、100年前とあまり変わらないのではないかというような、周囲の海と一体となった生活があります。人々の社会関係や生活様式の基本部分には、伝統的な側面がまだまだ息づいているようです。現在は自動車も電気も、スマフォもタブレット型端末も使われてはいますが。
 キリバスが独立したのは1979年、40年前です。ある意味では、明治40年代の日本のような立場にあると見ることもできます。国づくりで言えば、政治的時間という観点からは、草創期と言ってもいいでしょう。
 他方で、海岸はプラスティックゴミや家電ゴミで汚れています。消費文明の荒波がサンゴ礁のこの島にも押し寄せているのです。消費文明の観点からは、21世紀的です。

 仙台での生活では、藩政時代の名残はごくわずか感じられるだけです。私たちのキャンパスは仙台城の二の丸跡です。大学の植物園は城の御裏林。社殿が国宝に指定されている大崎八幡宮は、1607年の造営です。しかし明治・大正・昭和の戦前期の面影は、仙台市と仙台市民が歴史を大事にしてこなかったために、また開発圧力の大きさの故に、残念なことにほとんど残っていません。私たちが主に向き合っているのは、1960年代の高度経済成長期以降の仙台の姿です。私たちが時間の重層性を意識することはめったにありません。

 日本の200年前は、十返舎一九や小林一茶などが活躍した文化・文政期(18041830年)です。この頃から現在までの200年分の日本の姿が凝縮して、島のここかしこに同時に点在し・併存していると見ることができるかもしれません。しかも気候変動問題の顕在化があります。この島でいつまで安全安心に暮らせるのか。
 海岸線の侵食・後退。場所によっては80メートルほど後退し、旧道は海面下に没し、付け替え道路に替わっています。雨期の短縮、干ばつ。洪水などの高潮被害。サンゴの白化。そしてもっとも深刻なのは、井戸水の水枯れと、塩分濃度が増して飲み水が塩辛くなっていることです。

国土喪失の危機は日本や先進国の犠牲

 「キリバスが直面している気候変動問題は、日本や先進国の発展・エネルギー多消費の犠牲だ」。Kiri-CAN の若者の意見です。世界中でもっとも二酸化炭素を排出していない自分達が、世界で一番早く、気候変動のもっとも深刻な影響を受け、この島に住めなくなるかも知れないという不条理があります。
 私邸に招かれ、トン元大統領と懇談する機会もありました。彼は大統領時代(200716年)に、11万人の全国民が移住できるようにフィジーに大量の農地を確保しています。「私たちには選択の余地がない。自分たちの運命を自分たちで決められないんだ。否応なく、自分たちの国土を失ってしまうかも知れない。」元大統領の悲痛な言葉です。

地球全体のためにキリバスを救おう

 キリバスの人たちは、21世紀後半の未来を奪われているのかも知れないのです。
 キリバスが直面しつつある深刻な現実は、決してどこか遠い国の他人事の問題ではありません。落盤事故を警告する炭鉱夫のカナリヤのように、地球全体に対する警鐘のように思われてなりません。私たち自身の、私たちの子どもや孫達が直面する未来の縮図です。キリバスは、遅れているどころか、30年後・50年後の日本を、地球の未来を、先取りしているとも言えるのです。
 現地の若者たちとの交流を締めくくる際に、私が、"Make the Earth great again! (地球を再び偉大にしよう)、Make small islands great opportunity to survive! (小さな島々に存続の機会を)"と言うと、Kiri-CANのペレニセ事務局長は、"Make Kiribati great for the whole world!" と返してくれました。「地球全体のためにキリバスを救おう」という素敵な言葉です。「フクシマは世界を救えるか?」という鋭い問いかけがあるように、「キリバスは世界を救えるか?」という喫緊の問いに私たちは直面しています。キリバスが直面する問題から私たちは何を学ぶのか。私たちの学習能力が問われているのです。

 この旅では、一般社団法人日本キリバス協会のケンタロ・オノさん(仙台市生まれですが、キリバス国籍を持つキリバス人です)に大変お世話になりました。ひとかたならぬご支援と情熱に深謝申し上げます。
Kiri-CANの若者たちと
 「ポスト平成」の時代、卒業生のみなさんには、どんな人生の旅が待ち受けているでしょうか。

2019年1月31日