原罪としてのオキナワ・可能性としてのオキナワ

卒業生に贈る言葉 2016年度


 本年度も、海外出張・国内出張が続きましたが、とくに印象的だったのは、1998年以来、18年ぶりに10月中旬に出かけたオキナワでした。沖縄国際大学で開かれた日本環境会議沖縄大会に出席するためです。

郵便番号9XX の秘密

 昔、仙台と沖縄の郵便番号は、98Xと90X、どうして似てるんでしょう、と友人に聞かれたことがあります。んー確かに。面白いことに、北陸4県と南東北3県、沖縄県は郵便番号が9XXなのです。100-0001は、千代田区千代田1−1、皇居の郵便番号です。日本の郵便番号のシステムは、皇居を起点に周辺に向かうという日本社会の秩序を示していたのです。福島原発事故前、原発の3分の2は、郵便番号9XXの地域に集中していました(拙著『脱原子力社会へ』岩波新書, 2011年, pp.40-45)。沖縄と東北・北海道に共通するのは〈周辺性〉というキーワードなのです(北東北・北海道の郵便番号は0XXです)。
 沖縄は野球がさかんですが、都道府県対抗駅伝などでは例年最後にゴールを切っています。沖縄県と青森県が最下位争いしている指標は少なくありません。

「琉球処分」という手品

 明治時代初めまで、沖縄が「琉球」という独立国だったことはよく知られていますが、沖縄がどうやって日本に組み込まれることになったのかを、本土の義務教育や高校ではきちんと教えていません。
 明治維新にあたって、幕藩体制を廃して天皇中心の中央集権的な国家につくりかえていくことが最大の懸案でした。そのとき「版籍奉還、廃藩置県」という手品がなされます。鎌倉幕府以後、武家が預かってきた領地(版図)と領民(戸籍)を天皇にお返しするという卓抜なロジックです。端的には、明治新政府が伊達家や上杉家のような大名から領地と領民を取りあげたわけですが、ほとんど抵抗なく接収できたようです。
 しかし、そもそも天皇のものだったというロジックが通用しない地域がありました。それが独立王国だった沖縄(「琉球」は中国がオキナワを呼んだ呼称です)です。大和朝廷の支配が、沖縄に及んだことはありませんでした。
 江戸時代、琉球王国は薩摩の間接支配下にありましたが、清との中継貿易で栄えていました(清の属国でもありました)から、「版籍奉還、廃藩置県」のロジックはそのままでは適用できません。結局、明治政府は「琉球処分」の名のもとに、1879年に約300名の兵士と約160名の警官によって武力併合し、500年続いてきた琉球王国を廃止し、沖縄県を設置するのです。
 中国(清)は当然納得せず、沖縄県の存在を認めませんでした。沖縄県を中国が承認するのは、1894年の日清戦争に日本が勝利してからです(このとき沖縄県の範域に尖閣諸島を含んだのかどうかという微妙な問題があります)。
 戦前、日本の都道府県には、各県に、第二高等学校(現在の東北大学)、山形高等学校(現在の山形大学人文学部・理学部)、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部、卒業生に宮沢賢治がいる)のように、最低1つは旧制高等学校、高等専門学校という高等教育機関がありましたが、沖縄県にだけは、旧制師範学校しかありませんでした。
 オキナワに対する構造的な差別には、きわめて根深いものがあるのです。

普天間基地に着陸するオスプレイ

沖縄戦と米軍基地 

 1945年、「本土決戦」を遅らせるためにオキナワは「捨て石」になり、3月26日から6月23日までの3ヶ月間にわたる激しい地上戦の結果、日米双方で、一般住民約4万人を含む、約24万人が犠牲となりました。沖縄本島南端の「摩文二(まぶに)の丘」に「平和の礎(いしじ)」があり、日米双方の犠牲者の墓碑が刻まれています。1つ1つ見ていくと、2歳とか4歳とか幼児の名も多く、一家全滅に近い惨劇だったことが偲ばれます。

 よく指摘されるように、国土面積0.6%の沖縄に、在日米軍基地の約75%が集中しています。嘉手納基地をはじめ、「現存するほとんどの米軍基地は、沖縄戦によって占領した空間を米軍が基地として現在まで使用している結果である」(我部政明氏)ということです。
 大会前日には、辺野古の新基地建設予定地へのバスツアーがありました。帰途立ち寄った最激戦地の1つ嘉数(かかず)高地からは、普天間基地がよく見えます。10機近いオスプレイが、オニグモのように機を横たえていました。オスプレイは騒音を立てながら、1日中頭上を飛び続けていました。

  普天間にオニグモ数機オスプレイ  冬虹

 オキナワは、原爆の投下を受けたヒロシマ・ナガサキ、水銀汚染のミナマタ、福島原発事故で放射能汚染の深刻なフクシマとともに、戦後日本社会の「繁栄」の裏側にある〈原罪〉のような場所なのです。オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、ミナマタ、フクシマに犠牲を押普天間基地とオスプレイ しつけ、トウキョウが富を吸引してきた構図があります。

「オキナワは日本の民主主義のカナリアだ」

 1996年琉球大学で開催の日本社会学会大会、98年宇井純さんを中心に、沖縄大学で開催された日本環境会議沖縄大会に次いで、今回が3度目の沖縄です。98年の日本環境会議では、公共事業にともなう赤土の海洋流出をはじめとする環境問題が中心テーマでした。
 今回は「環境・平和・自治・人権——沖縄から未来を拓く」をテーマに、400名を超える参加者が集まりました。沖縄県と日本政府が鋭く対立している辺野古の新基地建設問題、オスプレイの強行配備、安倍政権が進める安保関連法の制定、憲法改悪をめぐる動きを背景に、危機感の強い大会となりました。本土の新聞は1行も報じませんでしたが、沖縄タイムスと琉球新報は連日熱心に大々的に報道していました。
 この、本土での新聞報道が一切なかったことに象徴されるような、日本政府および本土側のメディアや一般市民の「無知・無関心・無能力・無気力」に対する現地の研究者や活動家の苛立ちも大会全体のトーンになっていました。
 98年はポスト冷戦期で、新しい世紀へのナイーブな期待もありましたが、18年を経て、辺野古新基地建設の強行によって、基地問題はむしろ深刻化しているのです。「オキナワは日本の民主主義のカナリアだ」(前泊博盛氏)という発言も印象的でした。オキナワの民主主義が蹂躙されることは、日本全体の民主主義の危機でもあるのだが、本土側はそこに気づいているのか、という問いかけです。
 大会のエッセンスは、『環境と公害』46巻3号(2017年1月25日刊行)にまとめられています。

沖縄の民芸

 東京の駒場にある日本民藝館は、柳宗悦(むねよし)のコレクションをもとにしたものですが、沖縄の工芸品も、柳らが1938年から太平洋戦争が始まるまでに集めた紅型(びんがた)や八重山上布、壺屋焼などの魅力的なコレクション約1600点を収蔵しています。この沖縄コレクションが貴重なのは、沖縄戦の被災を免れ、沖縄本島では失われた作品が残っているからです。フライトの都合で日本環境会議の開催より一足先に現地を訪れた私は、今回、沖縄県立博物館で開催していた「日本民藝館80周年 沖縄の工芸展——柳宗悦と昭和10年代の沖縄」を偶然観ることができました。
 沖縄の紅型は、柳らとともに沖縄に赴いた染色家の芹沢銈介(東北福祉大学に素晴らしい記念館があります)にも大きな影響を与えています。
 日本文化の多様性を考えるとき、沖縄文化はとても豊かな源泉・鉱脈の1つです。オキナワは東アジアの交流の拠点であり続けてきました。

東アジアの未来のために生き延びよ

 卒業生のみなさん。みなさんは、韓国・中国・台湾からの留学生と教室で肩を並べ、社会学実習を行いました。一緒に卒業したかっただろうキム・ドンウォン君は、昨年秋から2年間の兵役のためにやむを得ず休学し、韓国に帰国しています。送別会では、〈フリーハグ〉で送り出してあげたそうですね。
 東アジアの歴史は、日本の加害者性が鋭く問われる血なまぐさい歴史でもありますが、私たちは過去に目を背けることなく、未来を創ることを考えていかねばなりません。東アジアの歴史と将来像を考えるうえで、オキナワは、地政学的にも、歴史的にも大きな可能性を秘めています。
 米国に「自国第一主義」を掲げる奇妙な大統領が誕生し、「大統領令」の連発に世界が凍りつくなかで、みなさんはまもなく卒業式を迎えます。
 大震災を生き延びたみなさん、どうか激動の時代を生き延びてください。



2017年1月31日