終わりなき道
——非常事態宣言下のパリ会議から

卒業生に贈る言葉 2015年度

歴史的瞬間に立ち会う

2015年12月12日 抗議行動
 年に数回海外出張をしているが、2015年12月の第21回気候変動枠組条約締約国会議パリ会議(COP21)ほど、緊張した出張はなかった。会議直前の11月13日にパリ中心部で130人が亡くなる同時多発テロが発生したからだ。
 恩師の一人高橋徹先生は、つねづね「歴史的瞬間に立ち会っている」という感覚を大事にせよ、とおっしゃっていた。卒業生の君たちも、高校時代に2011年3月11日の東日本大震災、同日の福島第一原発事故を体験しただろう。
 パリ会議は、温暖化防止のための、2020年以降の新しい枠組みをつくることができるかどうか、それがどれだけ実効的で野心的なものになるのか、人類の叡智が問われる会議だった。この会議は全員一致ルールで運営される。つまり参加している195ヶ国とEU、どの国も拒否権を持っている。
 2009年12月のコペンハーゲン会議(COP15)も大きな期待を集めていた。しかしコペンハーゲン合意(accord)という合意文書はつくられたものの、「コペンハーゲン合意に留意する」という表現にとどまり、その結果、2010年以降、気候変動問題に関する報道件数は世界各国で激減する結果を招いてしまった。

失敗は許されない

 今回のパリ会議は失敗の許されない会議だった。とくに議長国フランスにとっては、同時多発テロを政治的にのりこえるためにも、文字どおり鼎の軽重が問われていた。閉会直後の12月13日は、フランスの地方選挙の投開票日でもあった。任期をあと1年残すばかりのアメリカのオバマ政権も、政権の遺産として、野心的な合意を望んでいた。
 両国ばかりではない。ISのテロに示されるように分断と亀裂と憎悪が拡大するのか、政治が国民の基本的な信頼を維持し続けることができるのか。国際間の合意によって、気候変動がもたらす悪影響をどれだけ回避できるのか。いずれの国の政府も、これまでにない緊張感をもって望んだ会議となった。
 実際、非常事態宣言下のパリは、COPの会議場周辺をはじめとして、ノートルダム寺院など要所要所に機関銃やライフルを構えた警官・兵士が配置され、物々しい警戒態勢だった。恐らくスリやコソ泥も激減していただろう。皮肉なことだが、いま世界でもっとも「安全な大都市」はパリかもしれない。深夜ひとり歩きの女性も少なくなかったし、地下鉄も平常どおり夜中まで運行していた(ただし中心部の地下鉄駅では、遅い時間は出入り口が限定されていた)。

「脱炭素社会」への転換に合意

 結果的には、パリ会議では、途上国を含むすべての国が、①平均気温の上昇を産業革命前と比較して2度以内に抑え、1.5度未満になるよう努力する(第2条)、②21世紀後半に温室効果ガスの排出と吸収をバランスさせる(実質の排出をゼロにする、第4条1項)、③継続的に削減に努め、次期の目標はそれまでの目標と比べて進捗を示す(第4条3項)、④協定の目標達成の進捗状況を、2023年以降、5年ごとに定期的に確認する(第14条)などに合意した。事前の予想を上回る画期的な合意内容となった。
 世界は、「脱炭素社会」への転換をめざすことに合意したといえる。パリ協定を機に、化石燃料時代の終焉、再生可能エネルギーの急成長、排出量取引をはじめとした炭素市場の拡大などが予想されている。

終わりなき道——マンデラの言葉

フランスの外相ファビウス議長の采配ぶりが光った会議だったが、日本で報道されていないことで印象的だったのは、南アフリカ共和国の女性の環境大臣の存在感と彼女が採択後の全体会議で、最後に引用したネルソン・マンデラの言葉である。南アフリカ共和国は、中国とともに、G77と呼ばれる途上国グループのリーダーである。しかも2011年のCOP17は、同国のダーバンで開かれ、ダーバン・プラットフォームと呼ばれる合意がなされ、今回のパリ協定に至る道筋が付けられることになった。2020年以降の新しい枠組みに、途上国を含む、すべての国の参加がめざされることになったのである。
 環境大臣が引用したのは、マンデラの自伝『自由への長い道』(1995年)の末尾の一節である(拙訳)。

  •  自由への長い道のりを歩いてきた。つまずかないように注意してきたつもりだが、つまずいてしまったこともある。けれど大きな山を登り切ったあとわかったことは、もっとたくさん登るべき山があるということだ。周りの景色があまりにもすばらしくて一休みしたこともある。来し方をふりかえって一休みしたこともある。しかしほんのわずかしか休むことはできない。自由には責任がともなうからだ。ぐずぐずしているわけにはいかない。私の長い道のりには終わりがないのだから。

 気候変動との闘いの長い道のりは、全く、マンデラがふりかえった自由への長い道のりのようだ。コペンハーゲン会議のようにつまずいてしまったこともある。私たちには後続の世代への責任がある。ぐずぐずしているわけにはいかない。気候変動との闘いの長い道のりにも終わりがないのだから。

シューズ・プロテスト

2015年11月29日 P. Swamaker氏撮影
 日程の関係で、私自身は直接見ていないが、開会式前日の11月29日(日)に開かれた「シューズ・プロテスト」もとても印象的なイベントだ。非常事態宣言の下、セキュリティ対策上の理由から、パリではデモが禁止されている。デモは即逮捕につながる。この厳しい条件の中で、どうすれば市民社会の意志を示すことができるのか。結局世界に呼びかけ、2万足以上の靴を共和国前広場に並べるという卓抜なアイデアが実施された。「シューズ・プロテスト」と呼ばれ、デモができない無念さを見事にシンボル化している。潘基文国連事務総長から送られたジョギング・シューズも、ローマ法王からの靴も並べられた。
 パリ協定が採択された12月12日にも、凱旋門近くで約15万人以上が参加した抗議行動が開かれ、私も参与観察した。赤いものを身につけ、実効的な合意を求める市民社会の声を表現しようという取り組みである。ここでも市民社会の側のさまざまな創意工夫が実感できた。さすがに「革命の国」フランスである。
2015年12月12日赤いものを付けて抗議行動をする人達



2016年2月1日