濫用される国際比較調査と日本の世論形成

International Fertility Decision-making Survey と少子化社会対策大綱
田中 重人 <http://tsigeto.info/16z>
(東北大学)
第61回数理社会学会大会 (2016-03-17)
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報告要旨

(2016年1月17日 数理社会学会大会事務局に提出したもの + 2016年1月24日までの訂正)

[報告要旨PDF版 (700kb)]

1. 問題の所在および本報告の目的と方法

International Fertility Decision-making Study (IFDMS) は、カーディフ大学Jackey Boivin 教授を中心とする研究グループが、イギリス経済社会研究会議 (ESRC) や製薬会社メルクセローノ等の援助を得て2009−2010年に18か国を対象に12言語でおこなった国際比較調査。Starting Families Survey と呼ばれることもある [1]。2010年6月のヨーロッパ生殖医学会 (ESHRE) での報告 [2] [3] 以降、この調査に含まれる妊孕性知識尺度 (Cardiff Fertility Knowledge Scale: CFKS) の得点比較結果が、「妊娠・出産の知識レベルが、日本は各国世界に比べて低い水準にある」[4] という主張の根拠として使われるようになった。2011年2月、Boivin 教授が来日し、国会議員らの参加する「生殖補助医療をめぐる法整備についての勉強会」で講演 [5]。2012年5月にはNHK取材班のインタビューを受けている (6月23日5月30日 の「NHKスペシャル」で放送、翌年に書籍 [6] 出版)。その後、ESHREの発行する Human Reproduction 誌に論文 [7] が掲載された。

IFDMSの実査は、日本とロシアでは調査会社による社会調査パネル (いわゆるモニター調査)、インドと中国では、社会調査パネルと不妊治療クリニックでの質問紙配布の併用、その他の各国ではオンライン調査 (Google/Facebook 広告と不妊関連サイトなどからのリンク) による。

オンライン調査での回答では、もともとこのテーマに関心が高く、自発的にオンライン調査に応募した対象者が集まる。このため、社会調査パネルによる回答者とは、属性の分布が著しくちがう [8] [9]。だから、この調査の結果からは、日本と諸外国における一般の人々の「知識レベル」を読み取ることはできない。このことはIFDMS研究チーム自身の発表した論文等 [7] [9] でも警告されている。

だが、これらの警告にもかかわらず、日本では、IFDMSによる国際比較結果は、日本人の妊娠・出産の知識レベルが低いことの根拠資料としてあつかわれてきた。2013年に「少子化危機突破タスクフォース」[10] がいわゆる「女性手帳」の創設を提言した際にも、資料のなかにふくまれている。さらに2015年の「少子化社会対策大綱」[11] は「妊娠・出産に関する医学的・科学的に正しい知識についての教育」をおこなうべきと述べ、CFKS得点を70点まで引き上げるという数値目標を設定した。

本報告では、対象者構成の問題のほかに、調査設計と質問文翻訳に焦点を当て、IFDMSの問題点を明らかにする。また、なぜこの調査結果が日本の政策を決定するほどの大きな影響力を持つに至ったかを考察する。資料として、公表されている各種文献のほか、独自に入手した日本語版調査票を利用する。

2. IFDMS調査設計の問題点

論文 [7:388] によると、IFDMSの調査票はまず英語でつくられ、潜在的利用者に対する予備調査がおこなわれた。この時点までに、社会間での比較可能性や、各言語への翻訳可能性を考慮したという記述はない。ついで、12言語への翻訳をおこなったうえで地元の専門家 (local fertility experts) が翻訳版を英語版と照合し、その地域の慣習に照らして適切かをチェック。翻訳者と専門家が合意した調査票を使用して調査を実施したという。翻訳版については予備調査を行わなかったようである。

以上から、IDFMSは国際比較調査としては設計されていないことがわかる。そもそも国際比較可能な項目かどうかの確認がないまま質問文が作られ、翻訳の段階で問題が見つかっても、質問項目自体が差し替えられることはない。その結果、妊孕性知識尺度 (CFKS) の項目のなかには、国によって基準が違う (つまり国によって正解が異なる) 医学的知識に英国の基準をあてはめて正誤を判定するものもある。

CFKSによる得点は、13の質問について、正答に1、誤答と「分らない」に0をあたえ、合計して13で割って100をかけて求める。この方法には、「分らない」が増えると得点が下がる、という問題がある。英語圏以外の諸国で得点が低いのは、翻訳がまずくて文意がつかみにくかったからではないのか。また、対象18か国中でいちばんCFKS平均値の低いトルコに関しては、Cronbachの標準化αが0.41と低い [7: 387] ことが報告されている (全体でのαは0.79)。これは、翻訳の結果として、英語版とはぜんぜん別の概念を測定してしまっているということではないのか。

これらの疑問点を確認しようにも、調査票は公開されていない。ただCFKSの英語版各項目が論文付録 [7: 397] に載っているだけだ。論文 [7: 387] には、調査については http://www.startingfamilies.org を参照せよとある。このURLはカーディフ大学のサイトに転送されるが、転送先には調査に関する情報はなにもない (2016年1月17日確認)。一方、IFDMS調査実施時のドメイン www.startingfamilies.com はすでに期限切れで、売りに出されている。調査対象者向け入口ページの記録 (2009年当時) は Internet Archive <http://web.archive.org> にあるが、そこから調査票をたどることはできない。論文以外の、プレスリリース [9] や報告書 [12] をみても、調査方法や調査票の情報はない。

3. 日本語版調査票

しかたがないので、Boivin 教授に直接電子メールで問い合わせ、PDF ファイルを入手した (2015年11月17日)。「妊娠に関する意思決定調査」というタイトルであり、男性用と女性用にわかれている (どちらも全17頁)。といっても、ふたつのファイルは、3か所で語句のわずかな違いがあるだけであり、ほとんど同一の内容といえる。調査票全体の構成は次の通り:表紙 / 挨拶 (1頁) / 第I部: ご自身の背景について (半頁) / 第II部: 親となること (2頁弱) / 第III部: 受精および妊娠の試み (2頁強) / 第IV部: 不妊治療サービスについての知識、信念、経験、意思 (6頁強) / 第V部: 社会状況および自分自身の健康・一般的医療ケアに対する態度について (3頁) / 「親になること及び妊娠健康問題に関する意思決定」(1頁)。なお、実際の調査においては、回答者はこれと同一内容のウェブ版にオンラインで回答している [7: 388]。

日本語版の翻訳の質は低い。「全く確率」「年制大学」「あたな」などは単純な編集ミスであろうが、「妊娠とは受胎能力、つまり女性が妊娠し、男性が父親になる能力を意味します」「推奨されれば、私の共同体の大多数は不妊治療を (何度でも) 私達にしてもらいたいのではないかと思う」のような文があちこちに出てくる長大な調査票に、481人もの回答者が最後まで答えたことは称賛に値する。特に男性の回答者は、「男性用」の調査票を選んだはずなのに、「ご自身がまだ妊娠してないと思われている潜在的理由について」質問を浴びせられ、当惑したのではないか。

CFKS (付録) については、私の主観に基づいて評価してみた。全13項目のうち、英語の内容と日本語の内容がほぼ対応していて問題がそれほどなさそうなのは、日本語版の番号で (3) (4) (8) の3項目だけと思う (もちろん、本当に問題なく比較できるかについては厳密なチェックが必要である)。ほかの10項目のうち、(11) は日本語の文章として意味不明。(2) は当時の日本と英国の基準が異なる [13] ために正誤判断がまったくちがう。(1) (9) (10) (13) は訳の不備 (副詞が訳出されていないなど) によって答えが大きく影響されるだろう。(5) (6) (7) (12) は訳語の意味範囲が日英で微妙に異なるものである。

4. 考察

以上のように、IFDMS調査結果からえられる妊孕性知識尺度 (CFKS) の得点は、国際比較に耐えるようなものではない。調査対象者の集めかたがまったくちがっているとか、日本語と英語がある程度できる人なら誰でも気づくような翻訳の問題があるとかいうのは、社会調査の経験や高度の知識がなくてもわかることである。これを利用して世論を誘導し、政策に介入してきた当事者たちが、この問題に気づいていないということはおそらくない。問題があることを知りながら、政治的目的のためにあえて使ってきたと考えたほうがよいだろう。私たちは、なぜこれを止められなかったのか。

第1に、IFDMSは海外での研究であり、ヨーロッパの生殖医学会で成果が発表されたこと。国内の社会学系の学会であれば相手にされなかっただろう研究内容であるが、社会調査の手法に疎く、日本語への翻訳の正確さを問題にする人もいない学会で、権威づけの作業がおこなわれたということだろう。また、研究代表者のBoivin氏はこの研究成果を持って来日し、日本政府やマスメディアに直接はたらきかけていた。そのことは、この研究の社会的インパクトとして、英ESRCに報告されている [14]。いまや、研究者が自ら営業活動をおこなって外国政府に研究成果を売り込み、それを業績として宣伝する時代なのだ。

第2に、国内の産婦人科・生殖医学関係の学会が、このデータを利用した政治的主張を行ってきたこと。2015年3月に日本産科婦人科学会・日本生殖医学会などの9団体が連名で「学校教育における健康教育の改善に関する要望書」を政府に提出した際には、参考資料としてこのグラフのコピー (に「日本はトルコの次に知識が低い」などと書き加えたもの) が使われていたという [4]。日本国内では、当該分野の学会が権威づけをあたえてきたのである。

これまでにも、研究者のおこなう不適切な社会調査とその結果の濫用は非難の対象となってきた。しかしその場合に主として想定されていたのは、国内の社会科学系の学者やそのグループによる小規模な濫用問題であった [15]。本件は、海外の研究者の不適切な社会調査データが、国内の自然科学系の学会によって政治的に利用され、マスメディアと政府を巻き込んで世論と政策を動かすという、社会調査濫用問題のあたらしい形態である。

文献

  1. 田中重人 (2015)「「スターティング・ファミリーズ」調査について」シンポジウム「高校保健・副教材にみる専門家の倫理と責任: データ改ざんと出産誘導」(2015-11-30 東京) <http://tsigeto.info/15v>.
  2. J. Boivin + L. Bunting et. al. (2010) "O-289 What makes people try to conceive?" Human reproduction. 25(suppl 1): i114. {DOI:10.1093/humrep/de.25.s1.69}
  3. 新村直子 (2010)「ヨーロッパ生殖医学会発 不妊治療の最前線リポート」『日経ヘルス』2010(9): 58−59. {http://bizboard.nikkeibp.co.jp/kijiken/summary/20100809/NH0157H_1803813a.html}
  4. 日本家族計画協会 (2015)「学校教育の改善求め要望書提出」『家族と健康』732: 1. {http://web.archive.org/web/20150826040308/http://www.jfpa.or.jp/paper/main/000430.html}
  5. 三浦天紗子 (2011)「なぜ日本だけが世界と違うのか?」『妊活.net』 <http://www.ninkatsu.net/jp/info/0003.htm>.
  6. NHK取材班 (2013)『産みたいのに産めない:卵子老化の衝撃』文藝春秋. {ISBN:9784163763606}
  7. L. Bunting + I. Tsibulsky + J. Boivin (2013) "Fertility knowledge and beliefs about fertility treatment: findings from the International Fertility Decision-making Study". Human reproduction 28(2): 385−397. {DOI:10.1093/humrep/des402}
  8. 高橋さきの (2015)「「妊娠しやすさ」グラフはいかにして高校保健・副教材になったのか」『SYNODOS』2015.09.14 <http://synodos.jp/education/15125>
  9. メルクセローノ (2010)「国際的調査結果により、妊娠に関する傾向と不妊治療をためらう原因が明らかに」(7月8日) <http://www.merckserono.co.jp/cmg.merckserono_jp_2011/ja/images/20100708_release_Fertility_survey_results_tcm2453_121136.pdf>
  10. 妊娠・出産検討サブチーム (2013) 少子化危機突破タスクフォース (第3回) 資料 <http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/meeting/taskforce/k_3/pdf/s4.pdf>
  11. 内閣府 (2015) 「少子化社会対策大綱」(3月20日閣議決定) <http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/law/taikou2.html>.
  12. Merck Serono (n.d.) Fertility: The real story. <http://www.icsicommunity.org/__files/f/1452/Fertility%20-%20The%20Real%20Story.pdf>.
  13. 日本産科婦人科学会 (2015)「不妊の定義の変更について」 <http://www.jsog.or.jp/news/html/announce_20150902.html>
  14. ESRC (2011) "His & Her biological clock: Reproductive decision-making and reproductive success in the 21st century" (Impact Report, RES-355-25-0038) <http://www.researchcatalogue.esrc.ac.uk/grants/RES-355-25-0038/read>.
  15. 谷岡 一郎 (2000)『社会調査のウソ:リサーチ・リテラシーのすすめ』文藝春秋. {ISBN:4166601105}

付録: Cardiff Fertility Knowledge Scale (CFKS) 13項目の日本語版・英語版


追記と訂正 (2016-01-24)


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