東北大学 文学研究科・文学部 Digital Museum 歴史を映す名品

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多彩な学術コレクション

東北大学 大学院文学研究科長・文学部長 柳原 敏昭

 

狩野文庫

最初に問題を出します。「国宝を持っている国立大学はいくつあるでしょうか。」

正解は4つ。東京芸術大学、京都大学、東京大学、そして東北大学です(このほか滋賀大学に国宝の寄託がある)。ちなみに国立大学は86あります。

東北大学の国宝は附属図書館の狩野文庫に収められた『史記』『類聚国史』 (るいじゅうこくし)です。『史記』はいうまでもなく、中国漢代の史家・司馬遷の著作です。『類聚国史』は菅原道真が古事記・日本書紀など六国史の記事を神祇・帝王・災異・風俗など内容別に分類・編集した書物です。狩野文庫に収められているものはいずれも平安時代(!)の写本の一部です。

では、狩野文庫とは何でしょうか。これは、もともとは狩野亨吉(かのうこうきち)という人のコレクションです。狩野亨吉は、現在でいえば秋田県大館市の人。「○○学者」の枠に収まらない、「知の巨人」としか言いようのない人です。この人がまた大変な収書家、コレクターでもあり、古今東西の書物、地図、絵本、絵はがき、果てはマッチのラベルの類まで集めました。このコレクションが順次、東北大学に搬入されるのですが、その第一陣がやってきたのは1912年のことです。もちろんまだ文学部等の前身である法文学部はできていません。しかし、初代総長の沢柳政太郞(さわやなぎまさたろう)が、将来、文系学部ができることを見越して、図書館の蔵書を充実させるために購入を決めたといわれています。ちなみに沢柳は狩野の親友でした。

10万8千冊におよぶ狩野文庫の中心は、江戸時代の書物です。ありとあらゆる分野がそろっており、「江戸学の宝庫」と呼ばれています。学外の研究者が、狩野文庫本閲覧のために図書館を訪れることを「仙台詣(もうで)」というと聞いたことがあります。

漱石文庫

狩野文庫と並ぶ附属図書館所蔵貴重書の二枚看板は漱石文庫です。彼の文豪夏目漱石の旧蔵書・遺品です。実は漱石と東北大学とに直接的な関係はありません。では、なぜそのようなものが東北大学にあるのでしょうか。

夏目漱石が、自宅に有為な若者を集めて木曜会なるサロンを開いていたことはよく知られています。そこに集った人々は大正・昭和初期の文化を先導し、「漱石山脈」と称されています。法文学部草創期の教員だった小宮豊隆(こみやとよたか、ドイツ文学)、阿部次郎(美学・西洋美術史)は「漱石十大弟子」(漱石の小説の装丁を手がけた津田青楓の命名)に数えられていますので、まさに「漱石山脈」の高峰でした。小宮は小説『三四郎』の主人公のモデルともいわれています。

小宮は、1940年に附属図書館長となります。漱石はとうに亡くなっており(1916年没)、東京の早稲田南町にあった旧宅(漱石山房と称した)では、蔵書や遺品がそのままになっていました。小宮は漱石の遺族と相談し、附属図書館でそれらの譲渡を受けることとなります。搬入は1943年から44年にかけて行われました。時はアジア太平洋戦争の真最中、1945年5月25日の東京への空襲で漱石山房は焼失してしまいます。間一髪のところで、貴重な品々は難を免れたのです。

漱石文庫は、漱石の蔵書(ほとんどが洋書)、日記、ノート、さらには作品の草稿(『吾輩は猫である』序文、『道草』)など約3,000点からなります。蔵書の3割以上に漱石の書き込みがあり、文豪の思考の跡をたどれるのが特長です。漱石研究は、この文庫なしにはできないでしょう。ちなみに狩野亨吉と漱石は大の親友でした。また、小宮や阿部は、狩野が旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部の前身)の校長を務めていた時の生徒でした。

ところで、漱石文庫に少し先んじて附属図書館に収められたものにケーベル文庫があります。ケーベル(Raphael von Koeber)はドイツ系ロシア人で、1893~1914年の間、東京帝国大学で哲学・美学などを講じました。チャイコフスキーに直に教わった音楽家でもありました。その人物の旧蔵書がケーベル文庫です。内容は哲学・文学にかかわる洋書です。収蔵にあたって尽力したのは、小宮と久保勉(くぼまさる、哲学)でした。久保はギリシャ哲学を専門とし、1929年から44年まで法文学部に在職しました。ケーベルの愛弟子でもありました。そして、実は漱石も学生時代にケーベルの講筵に連なっており、師への敬慕の念あふれるエッセイ「ケーベル先生」をものしています。さらに阿部も小宮もケーベルの教え子であり、特に「大正教養主義」の代表的論者とされる阿部の学問形成には、ケーベルの教養論が深く関わっています。当初、附属図書館では、ケーベル文庫と漱石文庫が隣り合わせに設置されていたといいます。上のエッセイで漱石がケーベル宅の書斎の情景を描写していることも考えると、とても興味深いものがあります。

チベット関係コレクション

二枚看板に次いで、附属図書館の蔵書で著名なのはデルゲ版西蔵大蔵経でしょう。

西蔵はチベットのこと、デルゲはチベットの地名です。デルゲ版西蔵大蔵経は、デルゲで作られたお経など仏教に関する文献(仏典)の集大成です。デルゲ版はチベット大蔵経の最も良質なものといわれています。この大蔵経をもたらしたのは、1935~44年に法文学部の講師だった多田等観(ただとうかん)です。秋田県の本願寺派寺院に生まれた多田は、西本願寺がチベットから招いた使節の世話係となりチベット語を修得します。そして1913年に苦労の末、チベットに入り、9年半にわたり滞在します。そこでチベット仏教最上位のダライラマ13世の信頼を得て、大蔵経を下賜されたのです。東北大学にこの大蔵経が納められたのは1925年のことでした。

チベットつながりでいえば、文学部には、河口慧海請来チベット資料があります。河口慧海(かわぐちえかい)は宗教家であり、冒険家でもありました。1900年に日本人として初めて鎖国下のチベットに至り、1914年にも再入国し、仏典、仏像・仏画・仏具・民俗資料(以上を造形資料という)、各種標本などを持ち帰りました。そのうちの造形資料・標本からなる約1,400点が文学部のチベット資料です。1954年から55年にかけて、河口の遺族から譲渡されました。交渉に当たったのは亀田孜(かめだつとむ、東洋・日本美術史)、羽田野伯猷(はだのはくゆう、インド学仏教史)でした。

ところで、なぜチベットの仏典は重要なのでしょうか。仏教はインドに発祥しましたので、仏典の原本は古代インド語(サンスクリット語など)で記されていました。一方、日本では古来、中国で翻訳された漢訳版が用いられてきました。ただし、それはあくまで翻訳です。仏教を究めたいと願う人々にとっては、原典にどのように記されているのかが大きな問題となります。しかし、原典には失われてしまったものもあります。ところが、チベットにはそうしたものが、チベット語に訳された形でのこされていたのです。翻訳の精度も非常に高いといわれています。ここにチベット仏典のかけがえのない価値があります。

なお、もちろん多田と河口とには面識がありました。河口2回目のチベット入国時には、多田も滞在中で、ラサで面会し、年初だったので新年会を開いたといいます。

考古資料と古文書

現在、文学部も附属図書館も川内南キャンパスにあります。川内南キャンパスは、江戸時代には仙台城の二の丸(藩政の中心)があったところです。

東北大学の文系学部が川内南キャンパスに移ってきたのは1973年のことです。それ以前、文学部も図書館も仙台市中心部の片平キャンパスにありました。もちろん法文学部もそうです。旧図書館は現在の東北大学史料館、法文学部の建物(第二研究室)も会計大学院研究棟としてのこされています(いずれも登録有形文化財)。その片平キャンパスの一角に小振りだけれども赤煉瓦で作られた瀟洒な建物があります。旧制第二高等学校の書庫でしたので、通称を赤煉瓦書庫、正式には考古学陳列館(あるいは文化財収蔵庫)といいます(こちらも登録有形文化財)。ここには、文学部の考古学研究室が管理する資料が収められています。

法文学部が設立された2年後の1925年、喜田貞吉(きたさだきち)が赴任します。喜田の専門は、日本古代史と考古学で、国史研究室(現在の日本史研究室・考古学研究室の前身)に属しました。彼は赴任すると早速、研究室内に奥羽史料調査部という研究機関を立ち上げ、東北地方、北海道、新潟県を主なフィールドとして資料の調査と収集に乗り出します。

喜田の収集したものでは久原(くはら)コレクション、遠藤・毛利コレクションと呼ばれているものが代表です。順序が逆になりますが後者は、1909年から発掘された石巻市の沼津貝塚(国指定史跡)の縄文時代の出土遺物で、473点が「陸前沼津貝塚出土品」として国指定重要文化財となっています。文学部は、重要文化財をもっているのです(このほか陳列館に保管されている宮城県名取市経の塚古墳出土の埴輪も重要文化財)。久原コレクションは、青森県津軽地方を中心とする縄文時代の遺物です。後(1957年)に考古学研究室の初代教授となる伊東信雄らが整理を行い、5冊の目録(公開・公表はされていません)を作り上げます。伊東は、1933・34年の二度にわたりサハリンを調査しました。その際に収集した資料も陳列館にはのこされています。

奥羽史料調査部は、古文書など文献史料の調査・収集も積極的に行います。現在、附属図書館所蔵となっている秋田家史料、文学部日本史研究室所蔵の朴沢文書、鬼柳文書は、本来、奥羽史料調査部が収集したものです。これらには中世の古文書が数多く含まれています。中世以前の古文書を大量に保有する大学は全国的に見てもそう多くはありません。秋田家史料は、津軽の豪族安藤氏を先祖とする近世三春藩主秋田家に伝わった一括史料です。

このほか図書館には中世文書を多く含む倉持文書、森潤三郎氏旧蔵米原文書があります。いずれも戦後になって寄贈されました。前者は鎌倉時代の足利氏に関する古文書がたくさんあるという希有な文書群です。また、後者の森潤三郎は鷗外の実弟です。歴史家・書誌学者であり、鷗外の史伝的小説の執筆を支えました。東北大学には漱石だけでなく、鷗外ゆかりのコレクションもあるのです。

なお、奥羽史料調査部は、1955年に東北文化研究室と名前をかえ、考古学や日本史に限らず、多様な分野から東北地方を研究する組織として活動を続けています。

中国関係資料

中国の大学から来られたお客様にお見せすると目を輝かされるのが、附属図書館の北京風俗図譜(8帙117枚)です。これは青木正児(あおきまさる、中国文学)が、1925年に中国に渡った際に、画工・劉延年に描かせたものです。すでに失われてしまった北京の市井の風景や生活ぶりが、色彩ゆたかに、リアルに描かれています。

中国関係の資料はたくさんありますが、あと二つだけ紹介します。現在の宮城県丸森町出身で、戦前期に東京帝国大学教授として仏教を研究した常盤大定(ときわだいじょう)という人物がいます。常盤は、1920~29年の間に5回にわたり中国各地で仏教史蹟を中心とする調査を行いました。その際に作成した石碑の拓本を1949年に文学部が購入し、附属図書館に寄贈しました。一方、2016年になって、常盤が中国史蹟調査の際に撮影した写真約900点が文学部に寄贈されました。この写真は、フィルムが普及する前のガラス乾板に写っているのが特徴です(フィルムも前代の遺物と化しつつありますね)。古いものは化学的な修復が必要となりますが、現在までに大半の復原が終わっています。今後はデジタル化を進める予定です。拓本の元になった石碑にしても、撮影された史蹟にしても、すでに失われてしまったものがあり、大変貴重な学術資料となっています。

以上、紹介しましたように、人文学に関わる東北大学の数々のコレクションは法文学部・文学部を軸とする人々が織りなす縁によってもたらされたのでした。ところで、これらコレクションの多くは購入したものです。資金はどうやって調達されたのでしょうか。大学って、そんなにお金があるのでしょうか。いえいえそうではありません。実は大部分(特に戦前のもの)は、齋藤報恩会という財団法人の資金援助によって購入が可能となったのです(ただし、狩野文庫は宮城県出身の実業家で貴族院議員の荒井泰治の寄附による)。齋藤報恩会は、宮城県桃生郡前谷地(現在の石巻市)の地主齋藤家が設立した、研究助成を目的とした財団です(1923年設立―2015年解散)。東北大学の研究は、この財団の支えなしでは成り立たなかったといっても過言ではありません。

【付記】

  1. 1)この文章は、柳原敏昭「東北大学文学部の歴史と未来―学術コレクションを中心として―」(東北大学文学部編『人文社会科学の未来へ』(東北大学出版会、2022年)の一部を改稿したものです。
  2. 2)東北大学大学院文学研究科教員の次の方々からご教示を得ました。この場を借りて感謝申し上げます。
    大野 晃嗣 鹿又 喜隆 桜井 宗信 長岡 龍作