東北大学 文学研究科・文学部 Digital Museum 歴史を映す名品

考古学管理資料 文学部所蔵考古資料

(考古学) 総合学術博物館 教授(文学研究科協力教員) 藤澤 敦

図1:宇鉄遺跡(青森県東津軽郡旧三厩村、現在の外ヶ浜町)出土の土器

1925年(大正14)、東北帝国大学法文学部の専任講師であった喜田貞吉(きたさだきち)は、蝦夷研究のための調査旅行で青森県を訪れていました。この地は、江戸時代後期までアイヌの人々が住んでいたと認識されており、アイヌ文化の慣習や地名が残されています。その際に、三厩村(みんまやむら)の村長の牧野逸蔵から、宇鉄(うてつ)小学校建設時に出土した宇鉄遺跡の出土品を寄贈されます。この資料が法文学部および奥羽史料調査部にとっての最初の考古資料となりました(図1)。中でも石刀や石冠など、異形の石器が注目されています(図2)。当時、喜田は他に類のない石刀を見て、その重要性を感じ、熱心にスケッチを取りました。その様子を見た三厩村長が資料の寄贈を申し出ました。その時の心境を、喜田は「全く予期以上の大収穫で、是だけで今回宇鐵へ来た労が酬ゐられて餘りがある」と述べています。後日、三厩村には東北帝大総長からの感謝状と寄贈資料の写真が送られています。これらは現在でも地元で大切に保管されています。

図2:宇鉄遺跡(青森県東津軽郡旧三厩村、現在の外ヶ浜町)
出土の異形石器・石冠

図3:経の塚古墳(宮城県名取市下増田)出土の埴輪

文学研究科が所蔵する重要文化財のひとつは、宮城県名取市の経の塚古墳の埴輪です(図3)。経の塚古墳は、1910年(明治43)頃に遠藤源七と常盤雄五郎によって発掘されました。出土品のうち、甲形(かぶとがた)埴輪や家形(いえがた)埴輪など4点が1959年(昭和34)に重要文化財に指定され、その後、遠藤源七から科研費で購入し、1962年(昭和37)に東北大学が所蔵することになりました。短甲形埴輪2点は、三角板を綴じた形式を表し、正面中央に装着の際の開閉部分が表現されています。家形埴輪は、寄棟(よせむね)造りの家を表しています。この古墳に葬られた人物は、5世紀の大和政権と繋がりのあった有力者であると考えられています。

図4:沼津貝塚(宮城県石巻市)出土の骨角器(環状垂飾)
写真提供:東北大学総合学術博物館 撮影:菊地美紀

図5:沼津貝塚(宮城県石巻市)出土の骨角器(離頭銛)
写真提供:東北大学総合学術博物館 撮影:菊地美紀

もう一つの重要文化財は、石巻市沼津貝塚出土品です(図4・5)。沼津貝塚は1909年(明治42)~1932年(昭和7)まで毛利総七郎・遠藤源七によって継続的に発掘調査が行われました。一連の調査によって得られた膨大な資料が両氏によって長く愛蔵され、毛利邸内に建設された石巻考古館で一般公開されていたこともあり、国内で最も有名な縄文貝塚の一つに数えられるに至りました。学術資料に対する両氏の深慮から本学に一括で割愛され、科学研究費(機関研究)の交付を受けて購入され、1961年(昭和36)に東北大学が収蔵することになりました。したがって、文化財収蔵庫(旧赤煉瓦書庫)には、重要文化財以外の沼津貝塚の膨大な出土資料も一括保管されており、縄文研究の黎明期に基礎資料として活用されてきました。そのうち、骨角器を中心に473点が、1963年(昭和38)に重要文化財に指定されました。沼津貝塚は、1963年(昭和38)に東北大学文学部考古学研究室が、1967年(昭和42)に宮城県教育委員会が発掘調査を行いました。1972年(昭和47)には遺跡自体が史跡指定されます。この沼津貝塚の研究と、文化財としての資料保存が成し得たのは、毛利・遠藤両氏の長きにわたる尽力と、学術資料を散逸させないことに努めた深慮によるところが大きいです。

参考文献:喜田貞吉1930「大正乙丑宇鉄遊紀抄」『東北文化研究』第2巻5号 15-36頁、毛利総七郎・遠藤源七1953『陸前沼津貝 塚骨角器図録』三和興行印刷所、伊東信雄1962-1964『沼津貝塚出土石器時代遺物 考古資料第1~3集』東北大学文学部東北文化研究室、伊東信雄1968「宮城県牡鹿郡稲井町沼津貝塚」『日本考古学年報』16、藤沼邦彦1972「石巻市沼津貝塚」『日本考古学年報』20、石巻市教育委員会1976『沼津貝塚保存管理計画策定事業報告書』石巻市教育委員会

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(考古学) 総合学術博物館 教授(文学研究科協力教員) 藤澤 敦