第 54 回東北哲学会研究発表要旨

生命現象をめぐって --西田幾多郎における生命の哲学

張 政遠(東北大学)



生命とは何か。そもそもこの問いは最も重要な哲学問題の一つである。しかし、近代生物学の誕生と伴い、生命の諸現象(栄養摂取・感覚・運動・生長・増殖等)は科学的に解明し続けられている。21世紀はまさにバイオ・テクノロジーの時代だと言われているが、9・11事件を皮切りに無残なテロが多発した昨今では、命の尊さをはじめとする生命現象を改めて問うべきであろう。無論、今までの哲学は完全に生命現象を無視したわけではない。ただし、これからの哲学に生命について哲学的あるいは倫理学的な視点を導入することは不可欠であるように思われる。

言い換えれば、「哲学の問題は固く、生命の問題でなければならない」。「〜なければならぬ」という表現から覗けるかもしれないが、この引用は西田幾多郎(1870-1945)のものである。西田の哲学といえば、「純粋経験」「自覚」「場所」などの概念が挙げられる。たしかに「純粋経験」は西田の処女作である『善の研究』(1911)の出発点であり、「自覚」「場所」または「私と汝」「絶対矛盾的自己同一」など術語は西田の哲学における中核概念であると言って間違いない。しかし、西田は「余はpsychologist・sociologistにあらずlifeの研究者とならん」と述べているように、「生命」こそが西田の哲学の中で最も重要なキーワードであると言えよう。じっさい、西田はヘーゲルの生の哲学(Lebensphilosophie)や同時代のベルグソンの生の跳躍(vital)にも強い関心を示している。しかし、西田は生命に関する哲学理論に満足せず、生物学者のダーウィン(1809-1882)やJ.S.ホルデーン(1860-1936)などの議論を積極的に取り上げ、自らの「生命の哲学」を展開している。

「生命」という言葉は「論理と生命」(1936)や「生命」(1944-45)など西田の著作の題目として用いられた。しかし、他の著作の中にも「生命」についての議論が散見される。例えば「生の哲学について」(1932)『日本文化の問題』(1940)などの作品も注目に値する。「生命」は晩年西田の哲学の一つ重要なテーマであるが、西田は「生命」という言葉をさまざまな意味で使っている。ここで、西田にあっての生命現象の3つの側面を挙げたい:
(1)「生」と「死」
(2)「生命」と「環境」
(3)「生命」と「学問」
本稿では西田のテキストをとおして生命現象を解明し、そして西田における生命の哲学(philosophy of life)の可能性を検討したい。



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