第 54 回東北哲学会研究発表要旨

派生は根源を証しうるか --ポール・リクール『時間と物語』におけるハイデガー解釈をめぐって

大塚 良貴(東北大学)



行為し受苦する人間の自己反省はどのようにして行なわれるか。リクールの哲学的思索はこの問いをめぐってなされているといっても過言ではない。この行為し受苦する人間の問題はやがてその時間構造や存在論にまで拡大されるようになるが、その際、ハイデガーの『存在と時間』が幾度となく批判的読解の対象とされてきた。とはいえ、そこでは決して『存在と時間』の整合的な解釈がなされている訳ではない。むしろリクールは彼独自の哲学的(人間学的)立場に引きつけてハイデガーを解釈してさえいる。

そこで本発表は、『時間と物語』(1983-85)とこれに後続する著作に焦点をあわせつつ、このリクールの立場の解明を目指す。そしてそれによって、リクールによるハイデガー解釈が、行為し受苦する人間の「証し」(attestation)という概念の展開と密接に関連していることを明らかにする。

ハイデガーとの対話によるこの「証し」の展開は、次のように整理されるだろう。まず『時間と物語』において、『存在と時間』の「時間性」「歴史性」「時間内部性」の章を独自に読み解くための着想、すなわち、頽落し派生的とみなされる自己が本来的で根源的な自己を「証す」という「革新的派生」の着想が提示される。『他者のような自己自身』では、まずリクール自身によって認知的・存在論的観点からこの「証し」の定式化が本格的になされた後に、ハイデガーの良心論の捉え直しを通じて「証し」における他者性が示される。そして『記憶、歴史、忘却』(2000)では、先の「革新的派生」の着想が再び採りあげられる。そこでは、派生態とみなされるような歴史の中に本来的な自己の未遂の実存諸可能性を見出し活性化させる「反復=取り戻し」のあり方などが提起される。

このように『時間と物語』以降の後期リクールにおいて、自己の自己自身たる「証し」が問題となるたびに、ハイデガーはつねにその対話相手として登場する。そしてその読解は、非本来的で派生的とみなされる現存在のあり方が、本来的で根源的な自己を「証す」という「革新的派生」の思想に貫かれているのである。



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