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『La Movado』725号(2011.7), 727号(2011.9)掲載文に加筆

ポーランドのエリザ・オジェシュコヴァ(Eliza Orzeszkowa)原作、ザメンホフ訳のMarta (1910)は、エスペラント文学の古典として、現代まで読み継がれている。清見陸郎(ろくろう)によってオルゼシュコ著『寡婦マルタ』として日本語に重訳されたことも、比較的よく知られている。
清見は劇作家としての経歴があり、のち美術評論(特に岡倉天心の評伝)の分野で活動するが、1923年ごろエスペラントを学習した。左翼系エスペラントグループの柏木ロンドにも参加し、その関係で改造社社員比嘉春潮(沖縄研究家)とも親交を結ぶ。比嘉の世話でこの翻訳は改造社から1927年に単行本として刊行された。社長の山本実彦もエスペラントに好意的で、この前後にエスペラント関係書がこのほかにも同社から刊行されている。

12月20日の読売新聞に掲載された広告では、「読め女性の悩みを!! 憤りを!! =本書を読んで泣かざるものは人の子に非ず= 現代の若き女性・教育家・婦人問題研究者は必ず読め!!」のコピーとともに、「近来これほど悲しい深刻な小説を読んだ事はありません…」、「わたくしは此小説を読んで初めて自分の力量と立場が判然わかりましてぞッとしました…」という読者の声が紹介されている。女性の地位の不安定さを生々しく描いたものとして、文学雑誌『不同調』や女性運動雑誌『婦選』の書評に好意的に取り上げられた。
翌々年には改造文庫に収録される。大島義夫が「300余頁で30銭とは驚異的廉価だ」と述べるほど手軽に買える値段になったため、一気に多くの読者を獲得することになる。「この物語を日本のあらゆる婦人、教育家、婦人問題の研究者に捧ぐ」という初版にあった訳者の献辞はなくなったが、当時の文学者や女性運動家から相応の評価を得ることにつながった。
小説家宮本百合子(1931年ごろ中垣虎児郎からエスペラントを学習)はいくつもの文章で『寡婦マルタ』に言及している。なお、夫の宮本顕治(日本共産党中央委員、戦後に書記長、委員長、議長)は読んでいなかったらしく、獄中にあった1942年8月に百合子に差し入れてもらって読もうとしたが、許可されなかった。
『寡婦マルタ』の、特に若い世代の女性への影響は大きかった。河崎なつ(東京女子大教授,戦後参議院議員. 1926〜32年日本エスペラント学会理事)はこれを1930年ごろに女学生に広く読まれた本の一冊に挙げているが、このことを裏付ける証言は容易に見つけられる。例えば、女性初の芥川賞作家中里恒子は、自分にできる仕事を見つけて持とうと思ったのは、女学校時代にふと読んだ『寡婦マルタ』の影響であったと回想している。中里は、「自伝に近い」という「ダイヤモンドの針」でも、主人公に『寡婦マルタ』から受けた衝撃を語らせている。国語学者寿岳章子(日本盲人エスペラント協会理事長岩橋武夫の姪)も、女学校時代を振り返って「生き方についての転機を、私は確かに『寡婦マルタ』から得たとの思いは強い」と述べている。

この小説は、日本を舞台に翻案されて『この母を見よ』の題で映画化(監督田坂具隆、脚色八木保太郎、主演滝花久子、入江たか子, 日活, 1930)された。『キネマ旬報』(1930.6.21)誌上の批評によれば「大体原作の筋を追ふてゐるが、更に飛躍して貧富階級の対立を明確に描きわけて現代社会機構の欠陥を暗示せんとした」作品である。「検閲の暴圧」によりフィルム全体の15パーセントほどにあたる463メートルも切除されたが、それでも「逞しい迫真性にたぎつてゐる」、「製作者の努力は水泡に帰してゐない」と評されている。

『寡婦マルタ』の女性運動への影響は戦後にも及んだ。早くも1946年には『働く婦人』誌がその第2号で、世界の名作の紹介としてこの作品を取り上げている。おそらく、宮本百合子の意思が働いていただろう。1951年には、クラルテ社から単行本として再刊されてもいる。
訳者清見は病をおして『天心岡倉覚三』(筑摩書房, 1945)の刊行にこぎつけたが、それ以降の消息は知られていない。普通に考えれば1951年の『寡婦マルタ』再刊時に出版社が訳者の了解を得たはずであろうが、実際の経緯は不明である。
このように、『寡婦マルタ』の刊行は、日本へのポーランド文学の紹介および女性解放思想の普及の面で意義のある出来事であった。エスペラントが橋渡しの役割を果たした好例である。

一方、ほとんど知られていないが、Martaにはこれに先立つ日本語訳があった。エリザ・オルゼスズコ著、彦阪本輔訳『女の運命』(東亜堂書房, 1914)で、「原名・マルタ」と付記されている。国立国会図書館に所蔵されているが、国立国会図書館編『明治・大正・昭和 翻訳文学目録』(風間書房, 1959)に採録されていない。カタログが紙のカードであった時代にこの本にたどりつくことは極めて難しかったであろう。なお、訳者の姓は表紙と奥付は「彦阪」であるが、「彦坂」とも表記されていて、他の資料も考え合わせると、「彦坂」が正しいように思われる。
筆者は、このほど実物を入手することができた。ほぼA5判の大きさで、本文は336ページ。ところどころに訳を省略した箇所があるが、抄訳というほど大幅に略されているわけでもない。
不思議なことに、どこにもエスペラントやザメンホフへの言及がない。しかし、登場人物の名前「ジヨハノ」[ママ](Johano)、「ルードビキーノ」(Ludovikino)などの表記から、エスペラント訳からの重訳であることは明らかである。文学作品としては、エスペラントから日本語に翻訳され、単行本として公刊された第一号ということになる。
前書きにあたる「おことわり」は、1913年9月づけになっており、このころには訳了していたらしい。著者への連絡を試み、すでに没していたためそれは叶わなかったものの、日本語訳のことがワルシャワの新聞に発表されたとも書かれている。あるいは、訳者ザメンホフと連絡をとったのであろうか。翻訳の意図として、「此の書が読者に語つている『あるもの』を感得して頂きたい」ために、「浅学非才を顧みず大膽にも此書を公にした」のだと言う。彼自身、エスペラント訳を一読して感動を覚え、翻訳に取り組んだのであろう。

『東京朝日新聞』(6月26日)の1面最上段の広告では、おおげさに「欧米の読書世界を震撼せしめたる一大奇書」とうたわれている。同紙7月20日「出版界」欄と『読売新聞』9月6日「新刊批評」欄にも、それぞれ短いが好意的な紹介が載った。しかし、どの程度の反響があったのだろうか。1914年という時代は、平塚らいてう(戦後、エスペラントを学習、支援)や伊藤野枝(1923年、大杉栄とともに憲兵により虐殺)らによる青鞜社の活動時期にあたり、「新しい女」が流行語になっていたが、この本が関心を引いた形跡は見えない。
彦坂は日本エスペラント協会(JEA)に1908年に入会(会員番号842)しており、名簿には東京市浅草区の住所があるが、職業は付記されていない。その他の経歴も分からない。翌1909年にはJEAから除名されている。JEAで編集を担当した千布利雄との確執も伝えられるが、詳しい事情は不明である。
エスペラントとの関わりは、そのような会員歴と直結していなかったのだろう。JEA入会以前に学習して、かなりの語学力をつけていたらしい。1908年10月から1909年4月まで、謄写版の全文E文個人誌Samideano Ĉiumonataを刊行する。引き続いて5月にはヴェールダ・ステーロ社を設立して、活版印刷の同名誌を再出発し、翌年まで刊行する。当初は Internacia Ilustrita Esperanta Revuo kun aldono de koroligita originala pentraĵo de japano, ĉino aŭ koreoと副題して、カラー大判の口絵ページを付していた。なお、B5判ないしB6判と紹介されることもあるが、活版印刷のものはA4判に近い。
この雑誌は、広く海外に送られた。積極的に募ったとみえて、外国からの寄稿も多数掲載されている。美しく、ヨーロッパ人にとってエキゾチックな口絵のせいもあって、ヨーロッパの人々に日本の強い印象を与えたらしい。Hikosaka Motosukeの名前は、L. Kökény kaj V. Bleier編Enciklopedio de Esperanto (1933) にこの雑誌の発行者として言及されている。この雑誌は現在でもウィーンのオーストリア国立図書館ほかに所蔵されている。
彦坂は日本や世界の昔話にも関心があったようで、1914年、Esperanta Biblioteko InternaciaとしてTondaja Sookiĉi, Malnova Japana Rakontoをエスペラント訳し出版した。同年に「世界お伽叢書」の一冊として『蛇王と裸のイバン』日本語訳も刊行したが、この原作はエスペラントではなさそうだ。
これらの出版活動は主に自費でのものであったようだ。独立独行を好んだ性格を伺わせる。彦坂の名はJEI維持員名簿の1923年版に現れ、のち関東大震災で「全焼の厄にあはれた」とも報告されている。名簿の1926年版にも載っているが、目立った活動はしなかったらしい。その後の消息も不明である。
結局、『女の運命』はエスペランティストの間でもほとんど知られないままであった。もう少し社会の反響を呼んでいたなら、その後の彦坂のエスペラントとの関わり方も変わっていたのかもしれない。
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