東北大学 文学研究科・文学部 Digital Museum 歴史を映す名品

考古学管理資料 奥羽史料調査部関係資料

考古学 教授 鹿又 喜隆 Profile

図1:片平キャンパスの一室。中央には和装の喜田貞吉、その左が古田良一、右が中村善太郎。

1925年(大正14)、法文学部国史研究室内に奥羽史料調査部が設置されました。喜田貞吉(きたさだきち・講義担当:日本古代史・考古学)が東北帝国大学の独自性を東北地方の歴史研究によって発揮すべきと考え、古田良一(講義担当:日本近世史)、中村善太郎(西洋史)と共に設立しました(図1)。彼らは、1925年(大正14)から1930年(昭和5)まで斎藤報恩会の助成を受け、東北地方に北海道と新潟を加えた東北日本の歴史・民俗資料を積極的に収集しました。そして、1929年(昭和4)に寄託された久原コレクションをはじめ、多くの考古学・歴史資料が確保されました。1930年代には、朴沢(ほうざわ)文書や鬼柳(おにやなぎ)文書、秋田家史料などが収集され、中世・近世史料の充実が図られました。同じ頃、河口慧海(かわぐちえかい)と多田等観(ただとうかん)が収集したチベット資料が、宇井伯寿(ういはくじゅ)ら東北帝大のメンバーによって整理され、東北大学の貴重な学術的財産となりました。奥羽史料調査部は、1955年(昭和30)に文学部東北文化研究室として発展解消されましたが、地域研究に根差した伝統と学風は現在に受け継がれています。

図2:旧奥羽史料調査部の研究室:現在の文化財収蔵庫(登録文化財)

図3:当時の経の塚古墳(宮城県名取市下増田)

東北大学片平キャンパスの中央、学都記念公園の片隅にひっそりと佇む赤煉瓦造りの建物があります(図2)。通称「赤煉瓦書庫」と呼ばれるこの建物は、旧制第二高等学校の書庫として1910年(明治43)頃に建設され、1925年(大正14)の同校の移転によって東北帝国大学に移管されました。そして、同年に設置された法文学部奥羽史料調査部の中核的施設として長く利用されることになります。斎藤報恩会の補助を受けた共同研究「奥羽資料の調査研究」を発端に、国史研究室を事務局として発足したのが奥羽史料調査部です。そこでは、学部の垣根を越えた研究交流があり、さらに在野の研究者が出入りする学びの場であったと言われています。現在は文化財収蔵庫となり、重要文化財2件(477点)をはじめ、貴重な考古資料と民俗資料、奥羽史料調査部の活動を記録した乾板写真など、約20万点もの資料を収蔵しています。以下では、主にこの赤煉瓦書庫に残された乾板写真や古写真から、東北大学の研究と教育の歴史を読み解いていきたいと思います。

なお、この赤煉瓦書庫は、2017年に登録有形文化財に指定されました。この3階建ての重厚な建物を詳細に見ると、四面のデザインがそれぞれ異なっていることが分かります。また、上階に行くに従って煉瓦積みの隅柱が少しずつ細くなり、階ごとに窓枠の装飾が異なるなど、非常に凝った設計となっています。

図4:赤煉瓦書庫の隣に移設された石棺。工藤雅樹(左)と加藤孝(右)

図5:赤煉瓦書庫の正面。伊東信雄(左)と加藤孝(右)

赤煉瓦書庫には2件の重要文化財が展示・保管されています。そのうちの1件が経の塚古墳の埴輪4点です。経の塚古墳は、1910年(明治43)頃に遠藤源七と常盤雄五郎によって発掘され、甲形(かぶとがた)埴輪や家形(いえがた)埴輪が見つかりました(図3)。1923年(大正12)には名取市下増田に伝染病舎を建設するために掘削され、長持形石棺(ながもちがたせっかん)が発見されました。その中には、人骨2体、鹿角製大刀2点、刀子2点、櫛などが副葬されていました。出土品のうち、甲形埴輪や家形埴輪など4点は1959年(昭和34)に重要文化財に指定され、遠藤源七から科研費によって購入し、1962年(昭和37)に東北大学に移譲されました。その後、経の塚古墳は完全に削平されましたが、赤煉瓦書庫の古写真の中にその姿が残されています。なお、経の塚古墳のあった場所は、今では道路の下になっており、南側に塚が復元され、「経の塚古墳跡」とされています。もともと墳丘上にあった観音堂を移設する必要があり、すぐ脇に塚が造られたのかもしれません。また、経の塚古墳の長持形石棺は赤煉瓦書庫の隣に移設され、現在も丸森町台町古墳群1号墳の石棺と並んで佇んでいます。赤煉瓦書庫にあった別の写真には、石棺を前に先学の姿が写っています(図4・5)。

参考文献:鹿又喜隆2022「第3章 近代・建築・教育の歴史資料 第1節 赤煉瓦書庫に残る法文学部の研究と教育の記憶」『学都仙台の近代 高等教育機関とその建築』(野村俊一・加藤諭・菅野智則編)pp. 96-102より

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考古学 教授 鹿又 喜隆