東北帝国大学法文学部支那学第二講座(現在の中国文学専修)の初代教授を務めた青木正児(あおきまさる・1887~1964)は、助教授として着任した翌年の1925年3月から1926年7月にかけて、北京に留学しました。辛亥革命(1911)で清王朝が滅亡し、中華民国が誕生してから14、5年経った頃のことです。急速な近代化によって、古典文学を理解する上で有用な資料となり得る王朝期の古い風俗が消滅しつつある状況を目の当たりにした青木は、風俗資料を蒐集しようとしましたが、多額の費用がかかることから断念し、画工を雇い、風俗画として記録に留めることにしました。そうして完成したのが、彩色画117枚から成る「北京風俗図譜」です。写真ではなく風俗画にしたのは、色彩を記録するためもあるでしょうが、「写真は実観を得るも、物体の説明には不便」だからだと、支那学第一講座(現在の中国思想専修)教授の武内義雄(1886~1966)に宛てた手紙(図1)に書いています。
図譜は「歳時」「礼俗(婚礼と葬礼)」「居処」「服飾」「器用」「市井」「遊楽」「伎芸」の8部門に分かれています。