東北大学 文学研究科・文学部 Digital Museum 歴史を映す名品

東北大学附属図書館、文学部 常盤大定関連資料

中国思想中国哲学 教授 齋藤 智寛 Profile

図3:雲崗第十窟前室東南面の写真ガラス乾板(1920年当時)

宮城県丸森町の浄土真宗順忍寺に生まれ、東京帝国大学教授を経て仙台道仁寺(どうにんじ)の住職として一生を終えた仏教学者・常盤大定(ときわだいじょう・1870-1945)は、大正時代から昭和初期にかけて5度にわたる中国史蹟調査を敢行しました。この調査の際に作成された碑文や石窟の拓本は、常盤の没後に東北大学文学部によって購入され、「中国金石文拓本集」225軸として今も附属図書館に収蔵されていますが、ここでは、そのうち2点を紹介します。

「京兆房山県西域寺大殿前仏幢外九種」は(図1)、大正9年(1920)、石経で名高い北京郊外の房山西域寺(雲居寺)で採拓された資料です。この調査には後に本学法文学部の支那学第一講座(現中国思想専修)教授となる武内義雄(当時は懐徳堂講師)が同道していたことが、武内の「訪古碑記(ほうこひき)」(『武内義雄全集』10)に記されています。なお常盤は同じ旅行で南京の古蹟を調査した折には、後に本学法文学部史学第二講座(現東洋史専修)教授となる岡崎文夫と会見しています(常盤『古賢の跡へ』)。

「山西竜山道教石窟拓」は、道教の一派・全真教の道士が元代(13世紀)に開鑿した石窟の壁面に刻まれた願文(図2)。この調査の成果は後に、常盤の大著『支那に於ける仏教と儒教道教』に取り入れられます。彼は、武内義雄とともに儒教・道教・仏教の三教交渉史という研究分野の開拓者でもありました。

図1:北京房山西域寺の諸拓本

図2:山西竜山道教石窟の拓本

以下3点は、2016年に道仁寺より文学研究科に寄贈された常盤大定関連資料です。まず、同定を終えたものだけで480枚、全体で約900枚ほどあるガラス乾板から、大正9年の雲崗石窟を写した1枚(図3)。常盤は史蹟調査において拓本を採るのみならず、仏像や寺院建築などの写真も多数撮影していました。その成果は、建築学者・関野貞(せきのただす)との共編になる写真集『支那文化史蹟』全12巻に結実しますが、文学部所蔵のガラス乾板コレクションはその原板と見られるもの、及び写真集では未使用だった写真を含み、それぞれに大きな意味のある資料です。なお偶然ですが、昭和14年(1939)に雲崗を再訪した常盤は、後に本学東洋史講座教授となる愛宕松男(おたぎまつお)と会っています(長廣敏雄『雲崗日記』)。

自筆原稿「道教ノ歴史」は(図4)、短冊や小さな紙片の挿入も含み数え方が難しいのですが、190枚ほどの罫線紙をこよりで綴じたノートの最初の一枚。前述の『支那に於ける仏教と儒教道教』にほぼ同文を見出し得ますが、おびただしい推敲を経て成稿に至る執筆スタイルがうかがえます。

図4:常盤大定自筆原稿「道教ノ歴史」

図5:常盤大定宛 釈円瑛書簡

「釈円瑛(えんえい)書簡」は、常盤が巻子仕立てに表装していた書簡群の一つで、満州事変前夜の中華民国20年(1931)8月5日、中国の僧円瑛(1878-1953)が常盤に当てた書信です(図5)。内容は日本で出版された『大正新脩大蔵経』の入手に関わることのようですが、文中には、日本の大陸政策を支持し旧満州でも活動した曹洞宗僧侶・水野梅暁(みずのばいぎょう)の名も見えます。僧侶としての常盤大定は、本人の主観としては親善のためとは言え、その活動がしばしば日本の中国侵略に加担する結果ともなりました。このことは、近年検証が始まったばかりの課題です。

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