東北大学 文学研究科・文学部 Digital Museum 歴史を映す名品

東洋・日本美術史管理資料 河口慧海請来
チベット資料

東洋・日本美術史 教授 長岡 龍作 Profile

図1:木造菩薩立像(右は足ほぞの銘文)

東北大学には、明治時代に単身チベットに入った河口慧海(かわぐちえかい)が請来した資料が収蔵されています。慧海は、15歳の時に読んだ『釈迦一代記』に心を打たれ発心し、後に黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶となります。慧海がチベットを目指したのは、日本にある漢訳仏典では釈迦の正しい教えを知ることはできないと考えたからです。そこで、梵語・チベット語仏典を求めるネパール・チベットへの旅を決意し実行しました。

明治30年(1897)、慧海は、インド・ネパールを経てチベットを目指しました。当時のチベットは厳重な鎖国状態にありましたので、慧海は日本人であることを隠しチベットに潜入しました。医学の心得があった慧海は、ラサ郊外のセラ寺で医者として名声を得ていましたが、1902年5月、日本人であることが発覚し、辛くもチベットから脱出しました。

帰国後の1903年11月、慧海は東京美術学校で請来品の展覧会を開きました。『河口慧海師将来西蔵品図録』(1904)はその図録です。また、この旅行の経験を1904年に『チベット旅行記』として出版します。さらに1909年には、その英語版"Three years in Tibet"を出版し、探検家としての名を一躍世界に知らしめました。

最初のチベット旅行では目的の仏典を入手することができなかったため、1904年、慧海は再びチベットを目指し日本を発ちます。けれどもチベット入国が叶うのは、10年後の1914年です。この旅で、慧海はついに2種のチベット語大蔵経を手に入れました。

図2:東京美術学校校友会編『河口慧海師将来西蔵品図録』(画報社 1904年)

図3:木造菩薩立像 光背裏面

図4:木造菩薩立像

木造菩薩立像は、銘文からネパールカトマンドゥのボードナート大塔で得たものであることがわかります(図1)。この菩薩像は『図録』に載っています(図2)。一方、木造光背には、明治38年(1905)にボードナート大塔で得たとする銘文があり(図3)、さらに四体の菩薩像がコレクションにはあります(図4)。これらは2回目の請来品です。2度の旅行にわたって入手されたことを見ると、慧海はこれらの菩薩像に深い思いを懐いていたことが窺われます。

銀製釈迦如来坐像には、ボードナート大塔下の「波留倶羅都(ハルシャラージャ)」が造ったと記す刻銘があります(図5)。この釈迦如来像は銀製文殊菩薩騎獅像ともに、『図録』に載っています(図6)。『チベット旅行記』には、1903年1月から3月頃、カルカッタの在留日本人から寄付された資金をもとに、銀の仏像3台とそれを納める厨子(ずし)1個をネパールで拵えたとあり、この2像がそのうちの2体に相当します。これらは、『旅行記』に登場する第1回目の数少ない請来品として貴重です。

図5:銀製釈迦如来坐像(右は底板の刻銘)

図6:『河口慧海師将来西蔵品図録』(右は現在の銀製文殊菩薩騎獅像)

東北大学のチベット資料は、慧海請来の大蔵経以外の造形資料よりなっています。その大部分は、第2回目の旅行で収集されたものですが、第1回目の請来品もわずかに含まれています。これらの資料の重要性は、河口慧海という人物の傑出した個性を現物を通して伝える点にあると思います。河口慧海は、現代の日本人が失った信仰心と知力、そして実行力を持って生きた人物です。これらの品々はその人生の証しという意味も持っているのです。

Interview

東洋・日本美術史 教授 長岡 龍作