東北大学 文学研究科・文学部 Digital Museum 歴史を映す名品

東北大学附属図書館・秋田家史料 三春藩歴代藩主肖像画

東洋・日本美術史 准教授 杉本 欣久 Profile

図1:狩野探船章信「秋田輝季肖像」(3代藩主・1649~1720) 左・大幅 右・小幅

東北大学附属図書館には出羽の戦国大名・安東愛季(ちかすえ・1539~87)、その曽孫にあたる三春藩の2代藩主・秋田盛季(もりすえ・1620~76)から10代肥季(ともすえ・1813~65)に至る計10人の肖像画が伝わります。安東愛季は平安中期の武将・安倍貞任(あべのさだとう・1019?~62)の子孫にあたり、秋田県北部から青森全域、北海道南部を勢力圏としました。その子・実季(さねすえ・1576~1659)の代には居城を檜山(能代市)から湊(秋田市土崎)へと移し、秋田氏を名乗りました。豊臣秀吉の伏見城築城や朝鮮出兵などで活躍をみたものの、関ヶ原の戦いでは東軍につき、慶長7年(1602)に佐竹氏と入れ替えに常陸国宍戸(茨城県友部町)、さらに跡目を継いだ嫡男・俊季(としすえ・1598~1649)の正保2年(1645)には、福島県田村郡三春町を中心とする三春藩に転封され、幕末に至るまで秋田氏が5万石の所領を統治することとなります。

この三春藩に伝来した文書や蔵品が、東北帝国大学国史研究室の講師であった歴史学者・喜田貞吉(きたさだきち・1871~1939)の尽力により、昭和14年(1939)に秋田家から寄託され、昭和30年代に約4,300点が正式に附属図書館の所蔵となりました。

「衣冠束帯(いかんそくたい)」の正装姿であらわされた歴代藩主の肖像画は1人につき1点ですが、3代秋田輝季(てるすえ・1649~1720)のみ大幅(111.0×56.0cm)と小幅(51.5×30.3cm)の2点が伝わります(図1・2)。輝季は「三春駒」として知られる献上馬の品種改良を行うなど、藩財政にテコ入れを行った藩主として名を残しました。ともに垂纓(すいえい)の冠を戴き、位階の五位をあらわす緋色の袍(ほう)と黒の下襲(したがさね)を着け、笏(しゃく)を執って高麗縁(こうらいべり)の上畳に座す姿に描かれます。太刀を帯びるための切平緒(きりひらお)には「檜扇(ひおうぎ)に違い鷲羽」紋があしらわれます。この紋は、鎌倉時代の安東家当主・貞秀が後鳥羽上皇に召された際、朝鮮から送られた鷲の羽2枚を檜扇に載せて拝領したのに因んだもので、同じ紋が大幅の金具にも認められます(図3)。大幅には「孝子 秋田頼季奉祀」の記および裏面に「法名号 乾元院殿剛山瑞陽大居士」の墨書があり、重臣・荒木高村の長男でありながら4代藩主を継いだ秋田頼季(よりすえ・1696~1743)が、先代の菩提を弔うために発願したとわかります。ただし、小幅上部の三行書も同じ書体であることから、2点は同時期の制作とみて良いでしょう。小幅の軸先には珍しく水晶が用いられ、現在でも三春北部の鹿島大神宮(郡山市西田町)にペグマタイトの岩脈が露頭しているように、領内で産出された水晶の可能性が考えられます。

図2:顔の部分拡大

図3:秋田家の家紋「檜扇に違い鷲羽」

この2点を手がけたのは、著名な幕府の御用絵師・狩野探幽の孫にあたり、その鍛冶橋狩野家3代を継いだ狩野探船章信(かのうたんせんあきのぶ・1685~1728)です(図4)。追善目的という肖像画の性格から、輝季が没した享保5年から間もない探船36歳頃の制作とみられます。宝永6年(1709)には京都御所の障壁画を描いたほどですが、わずか44歳で亡くなったため、希少性の高い作品と位置づけられます。

図4:鍛冶橋狩野家3代・狩野探船章信(1685~1728)の落款

図5:狩野祐清英信「秋田定季肖像」(6代藩主・1726~57)

一方、29歳で早逝した6代秋田定季(さだすえ・1726~57)の肖像画は、その溌剌とした若い相貌をとどめる佳品です(図5)。7代千季(倩季・1751~1813)によって発願され、幕府御用絵師の中橋狩野家11代を継いだ狩野祐清英信(かのうゆうせいてるのぶ)(1717~63)が手がけました。狩野派宗家に生まれた英信も47歳と短命でしたが、8代吉宗(1684~1751)と9代家重(1711~61)という将軍2代の遺影を手がける栄誉に預かりました。本図は「法眼大蔵卿祐清拝画」との署名から制作年代が限定され、やはり定季の没した宝暦7年から間もない祐清41歳頃の作とみられます。両将軍薨去の間に描かれた事実からして、その技量を窺ううえで注目すべき作品となります。

5万石という小藩の三春藩が専属の御用絵師を抱えた形跡はなく、藩主が亡くなるごとに、江戸で著名な狩野派の絵師に依頼して描かれたのがこれらの肖像画です。藩主の肖像画は追善儀礼の場には不可欠であり、どこの藩でも制作されたはずですが、現在に至るまで歴代が揃って伝わる例は多くはありません。それゆえ、一つの藩が江戸時代を通じてどのように藩主の肖像画を制作したのか、その状況を伝える貴重な歴史資料とみることができます。

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東洋・日本美術史 准教授 杉本 欣久