吉田民人先生を偲んで

日本社会学会ニュース No.198(2010年1月20日発行)

下記は、「日本社会学会ニュース No.198」(2010年1月20日付け)に、寄稿したものです。あわせて「峻拒」ー最後の問いかけLinkIcon師を見つける旅LinkIconも参照ください。

朝の海
 「科学者として、生命の根源である海へ帰りたい」という言葉を遺して、吉田民人先生は2009年10月27日に逝去された。享年78歳。「ひっそり消えたい」というご自身の固い遺志によって、ご家族のみで密葬された。独自の死生観をお持ちであった、先生らしいご遺言であり、人生の閉じ方であろう。
 吉田先生は、日本の社会科学者に数少ない、きわめて独創的で、社会科学全体を包摂するような壮大な情報論や自己組織性論、所有論、主体性論、科学論等を展開されたスケールの大きな理論家である。世界的に見ても、情報論や自己組織性論のパイオニア的な研究者であり、不世出の巨人といっても、決して過言ではないだろう。1994—97年に本学会会長を務められたほか、日本学術会議副会長などを歴任、社会学からは3人目の学士院会員でもあった。病と闘われた最晩年にも、物質科学や法則主義にもとづく17世紀以来の主流の科学思想を相対化するような、選択を重視した進化論的なプログラム主義的秩序論にもとづく、独自の壮大な新しい科学哲学を提唱され、その彫琢に余念がなかった。
 1931年愛知県のお生まれであり、京都大学文学部、同大学院にすすまれ、関西大学・大阪大学を経て、京都大学教養部で教鞭を取られた。東京大学を定年で退官された後は、中央大学教授を務められた。
 先生との出会いは、駒場から本郷に進学した1975年4月に遡る。この年、43歳の先生は、京都大学教養部から東京大学文学部に移ってこられた。他大学出身の東大教員がまだ珍しい時代であり、社会学では吉田先生がはじめてだった。駒場の2年次に、発表されたばかりの「社会体系の一般変動理論」(青井和夫編『社会学講座1 理論社会学』東京大学出版会、所収)を読んでたちまち魅了され、着任をうかがって心待ちにしていたことが、昨日のことのように思い出される。

 先生はノートもテキストもプリントも何も持たずに教室に現れると、黒板にチョークだけで、やや甲高い声で、速射砲のように、口早に授業を始められた。講義も演習も基本的にこのスタイルだった。授業をもつようになってこのやり方を何度か真似たことがあるが、よほどの集中力と周到な準備が必要である。
 授業中のちょっとした説明の仕方や院生・学生の報告へのコメントの折、また研究会の折などに、ふとした拍子に、今の自分の発言やものの言い方は、先生を真似たセリフだなとか、先生的な発想のコメントだなと心の中で呟くことがある。
 学問へのひたむきな姿勢、テーマの設定の仕方、発想の仕方、アイデアの育て方、本質的なものの捉え方、言葉の選び方、議論の仕方、発言の仕方、志をどう育くむべきか、学生や院生へのまなざし等々、研究者としての処し方の一切を先生に教えていただいた。
 「民人は人民の敵だよ」と冗談を言いながら、とくに先生が何よりも強調され、身をもって実践しておられたのは、リベラルで反権威主義的な姿勢であり、自由な批判精神にもとづく創造的な研究の意義だった。「創造的破壊」「創造は誤読から始まる」「ミニ吉田はいらない」「読む前にまず自分で考えよ」などの先生の名言がある。「パラダイム革新」を説き、既存の枠組みから自由であることの重要性とその難しさを、常に力説しておられた。
 理論家としては、強靱な思索力と意志と精緻な文体で、独自の「吉田理論」の展開に専心しておられたが、他方で、研究室主任や学部長、本学会の庶務理事・常務理事・会長などとしての先生は、革新者であると同時に、バランス感覚に秀でた心配りの人でもあった。
 時折電話をさしあげると、先生はいつも、いま構想中の論文のポイントを熱っぽく語られ、なかなか受話器を置こうとされなかった。人事や噂話や思い出話などは好まれなかった。ご自分の最新の研究の話がほとんどであった。お体にさわらないかとハラハラしながら、先生の集中力と構想力、理論構築への真摯な情熱に居ずまいを正されたものである。
 「読者を媒介として故人は生者となる」と言われる。『情報と自己組織性の理論』(1990年、東京大学出版会)をはじめとする先生のご著作やお仕事は、新しい読者を媒介として、今後も絶えず新しく照射され、新たなる意味を注入され続けていくことだろう。
 「大きな事柄が理解されるようになるためには、半世紀が必要である」。バルザックのこの言葉ほど、海へ帰られた先生をお送りするのにふさわしい言葉はあるまい。
                   (東北大学 長谷川 公一)



2010年1月11日